美鉄の4110 | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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残り少ない余生をテキトーにいきていくブログ
◇監修 左上野 老鶴 ◇GM 経田野 横鋤 ◇照明 当代元 蔵志
☆余生を送っている人間が書いている記事ですので、恐縮ですが
 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。

昨年末、2年ほど前にご勇退された出向先の直上司の方から三葉の四つ切の写真を
いただきました。
どれも素晴らしいアングルと迫力で「美鉄の4110」が写ってておりました。

その方は、地元でも山歩きの元祖的存在の方だそうで、今でいうと「トレッキングの先人であるとともに
達人とでもいうのでしょうか、<写真>はあくまでも余技だそうですが、あまりにも見事な作品
でしたので、模写してみましたが・・・・
まぁ、出来はこんなもんです。カンドーをお伝えできなくてすいません・・・
お題は「美唄を目指して」ということになっておりましたが、撮影日撮影場所が記されて
おりませんでした。

場所については、この鉄道、炭山に向かって、右手が「山」がほとんどでありまして、このように、
下山方向で右手が「山」である場所は、美唄川右岸、盤の沢付近以外にないのではないかと
推察されます。
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<四つ切の模写>
「美唄を目指して」、
撮影年月日、撮影場所とも不明、美鉄No.4、社型4110,1926年製

 

 

・鉛筆:STAEDTLER、(2H,F,2B,4B)
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<ちょっこら美鉄と4110>
美鉄こと本名「三菱美唄炭礦鉄道」は、全線単線の10.6kmの産炭線でありました。
当鉄道は明治末期から開発されつつあった美唄炭礦に、大正3(1914)年、石狩
石炭株式会社が、美唄ー沼貝(→美唄炭山)8.3kmの営業を開始したことに端を発します。
曲折を経て三菱系の会社(三菱合資会社)が10.6kmを支配下に置いたのは、大正8年でありました。
また、閉山、運輸停止とも昭和47(1972)年6月1日でした。

駅は
美唄駅- 東美唄信号所 - 東明駅 - 盤の沢駅 - 我路駅 - 美唄炭山駅 - 常盤台
で、我路以外は交換可能駅であります。

炭礦住宅街は東明トウメイ、盤の沢、我路ガロを中心としており、付近は「東美唄町」と申しまして、
この一帯だけで石炭産業最盛期の人口は26000人もおりました。
特に、同時期、我路地区には、小学校が4校あり、最大の小学校は生徒数2600名と、
これは1校の小学校の生徒数としては未だ日本記録であります。

また、自治体としての美唄も隆盛著しく、昭和29(1954)年、美唄市の人口は91000人と最大を迎え、
札幌、函館、小樽、旭川、室蘭、夕張、釧路につぐ規模でありましたが、昭和30年、国家のエネルギー
転換政策で人口が減り始めます(☆)。
機械の効率化、新型化により出炭量は昭和35年までは増え続けましたが・・・

このころ、私は、幼稚園入園前で、美鉄美唄から2つ目の盤の沢駅の近くに住んでおりました。
元・上司には、昔、美唄に住んでいたことがあると申し上げていましたが、
写真をくださった理由は、そのことを思い出してくださったのか?改めて私が
「鉄」であることがばれてしまったのか?その方の気まぐれなのか、まったくわかりません。

その美唄市も昭和47(1972)年、美唄炭礦は終焉をむかえます。
そして、函館線上に駅毎と言っていいほどに並んでおりました「石狩炭礦」も残すところ、
奈井江と美唄に中小2鉱ずつ残すのみとなっていましたが、これらも昭和48年中に閉鉱してしまいます。

今、その日から、約40年。
我路地区は高齢者を中心とした200名が住むのみとなっているほか、美唄市の人口は
約23000人(平成26(2014)年末基本台帳)までに減少してしまいました。
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(☆)美唄の過去の人口、先代の駅の写真は「黒羽君成の鉄道小話(北海道コラム)」
2013-7-5
http://www.tsuchibuta.com/hokkaido/kk/13/20130705/20130705.html 
30年前に撮影した、札幌圏の駅(7)<美唄市都市代表駅、美唄>[最終回]
をご覧ください
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<図ー1>JR美唄駅ー東明ー盤の沢間の概要図
 
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<図ー2>列車と山の位置を確認すべく、「図ー1・盤の沢地区」を約2.6倍に
拡大してみました


                     ← 撮影場所と推測される個所(列車より右手が山がち) →
 

  旧・軌道敷がサイクリングロードになっていますので、我路まではたどれますし、盤の沢付近では、
鉄道線は山がちな美唄川の右岸(盤の沢本町の北側に「高台」という住所がありますので)を
走っていたことがわかります。
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当鉄道で活躍した4110型は、明治45(1912)年にドイツ、J,Aマッファイ社(現・クラウス=マッファイ,
1931-合併改称)から4輌輸入された4100型をもとにして国産化された初の5動軸機関車であります。
大正3(1914)年に30(4110-4139)輌、7年に9輌(4140-4148)が作られ、9600型と同様、4100よりも
火室面積を広げる工夫をした結果、動輪周出力は890PSと4100,9600型(870PS)よりも大きな値を
得ることができました。

メカニズム的には、第3動輪をフランジレスとし、さらに第1・第5動輪について枕木方向に25mmから
30mmの横動を許容する「ゲルスドルフ式機構」が4100型に引き続いて採用されました。
美鉄では、国鉄から、4122を昭和23(1948)年、4144を昭和24(1949)年に譲渡を受けています。
廃車はそれぞれ昭和46(1971)年、昭和42(1967)年でした。車歴が新しい4144のほうが早くは廃棄された
理由までは調べが及びませんでした。

美鉄では、よほど、4110がお気に召したらしく、三菱の関連会社に、社型の4110を作らせています。
車番は2-4で、就役と廃車はそれぞれ、2は大正9(1920)年、一説に大正8年、廃車は昭和47年廃業時。
3は大正9年から昭和44(1969)年まで稼働。
頂いた写真のモデル「4」は昭和元(1926)年から廃業時まで。

このうち「2」が東明駅跡に旧・駅舎とともに保存されており、状態も良く周囲は植樹によって、
今や道内でも屈指の桜の名所となっております。

さて、最後は、本物の「美唄駅を目指して」であります。
模写と並べなかった理由はこれをご覧になってご理解いただけたかと思います。
自分としても、あまり、カッコ悪い思いはしたくありませんので・・・
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<四つ切写真:美唄駅を目指して>社型4110、美鉄No.4
 
最後になりますが、動輪周出力890PSはC58の880PS、単行のDD50の900PSに匹敵します・・・


少し中だるみな内容でしたが、最後までおつきあいくださいましてありがとうございました。

                            カラスのクンセイ 拝