昭和16(1941)年12月、日本の真珠湾攻撃成功以来、米国海軍は、西海岸各地の洋上で、
日本の水上艦艇の艦砲射撃や艦艇同士の海戦に苦戦が続いており、加えて、「タンカー・
貨物船6.5万総トンを沈没あるいは大破」をはじめとするシーレーンの破壊工作、つまり、
乙型潜水艦チームの海面下の攻撃活発化対策にもまた困窮していた。
このため米国民の恐怖心は一様のものではなく、昭和17(1942)年4月、国威発揚と日本に対する敵対心
向上のため、米国政府は日本の帝都爆撃を計画するに至った。
当時、アメリカ本土を離陸し、日本まで渡洋する爆撃機は存在しなかったため、途中まで航空母艦で
運び、なるべく日本に接近してから、太平洋上で発艦、東京を爆撃し、中国大陸に逃げ込む。
燃料がなくなった段階で、パイロットは機外脱出、機体は不時着などで「生きる」という計画・目標が
立てられた。
実はこの案件より、以前、米国側では。真珠湾攻撃を受けた日からすでにルーズベルト大統領が
帝都爆撃の可能性を研究させていたといわれているし、日本では昭和17年3月、聯合艦隊参謀長
宇垣纏(うがき・まとめ)少将が帝都爆撃の可能性は「マーシャル~ギルバート諸島のラインを侵入経路
として今からでも帝都空襲はありうる」と警戒していた。
実際は「17爆撃隊」から募った志願者のノースアメリカンB-25爆撃機16機をホーネットに搭載。
護衛艦隊共々空母エンタープライズ以下ハルゼー中将指揮下にはいった(下記表)。
途中、日本の特設沿岸監視艇に発見され、日本を狙っている様子を打電されてしまい、燃料の不安を
なくすため、極力日本に近づいてから発艦する予定であったが、このままだと、空母ごと日本艦艇の
攻撃目標になるやもしれず、やむを得ず、計画より7時間も早く、飛び立たざるを得なくなった。
爆撃の範囲は東京から神戸まで広きにわたっていて、必ずしも有効打とはいいがたかった。
結果的には25機の内1機がソビエト領内に不時着、当時日本と中立条約中で捕虜に、24機は
乗り捨てで破壊されたと思われる。
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*アメリカ機のアルファベット+数字は目的+制式採用順
B=Bomber,爆撃機 F=Fighter,戦闘機 等
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ドーリットル爆撃隊:長<ジミードーリットル中佐>
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本務機:ノースアメリカンB-25双発爆撃機 X 16機
パイロット:17爆撃隊(第34、第37、第95爆撃中隊、第89偵察中隊)から志願者を選別)
参加兵力:ウィリアム・ハルゼー中将指揮
主任務隊:第18任務隊
発艦空母ーホーネット
重巡2、軽巡1、52駆逐隊(駆逐艦3)、給油艦1
協力隊:第16任務隊
空母ーエンタープライズ
重巡2、駆逐艦4、給油艦1
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0-1。アメリカ側の反応
この渡洋爆撃成功に沸き立ったが、直後に日本の艦載機が2度オレゴン州を空襲。アメリカ政府は
この事実を国民に隠ぺい。
アメリカ本土が他国の航空攻撃を受けたのは、開国以来現在までこの2回のみ。
0-2。日本側の反応
1.ミッドウェイ海戦を早めた?
次回の帝都空襲はもっと規模が拡大するだろうから、今の内に米機動部隊をたたくか、
ミッドウェイ近辺の島嶼群をを制圧すべきである・・・と山本ごじゅーろく中将(当時)の
発言がのこっているようで、実際の海戦はあらかじめ組まれていた予定日だったらしく、
諸説あり。
2.首都上空の防空の強化
成増飛行場の建設、高射砲第7連隊高射機関砲隊を皇居内に移動。
3.第一航空軍編成
国内の航空隊を統合、指揮補給を円滑に行おうとゆー組織強化対策
・・・以上、ま、だとーな線で?
Ⅰ-1。成増飛行場
Ⅰ-1-1。造成
・建設工期ー昭和18(1943)年
・工事動員部隊ー①赤羽工兵隊700人(陸軍近衛師団+第一師団から編成)
②荒川作業隊約700人(近隣在郷軍人で編成)
③武蔵野防諜突撃隊約170人(近隣青年団で編成)
④他に中野刑務所囚人、朝鮮からの出稼ぎ労働者、産業報国隊、
学徒など・・・・総勢約2,000人。
Ⅰ-1-2。使用開始
●最初の配属部隊
陸軍●●飛行第47戦隊=3個中隊#1ー(第一航空軍第17飛行団隷下)
●第43飛行場大隊、
#1:成増移転を機に独立飛行47中隊(2式単戦&・鍾馗X12)から
飛行第47戦隊(3個中隊編成)となる
&単戦:一人乗り戦闘機⇔複戦:二人(以上)乗り戦闘機
Ⅰ-2。霞ヶ浦海軍航空隊
本隊は元々教育隊として、大正11(1922)年に、日本で3番目に開隊された由緒ある部隊で
あったが、ドーリットル爆撃と同様のコースをたどって帝都侵入を果たさんとする敵航空部隊に
ついては、房総半島上空で待ち伏せてせん滅せしめる可能性もあることから、教育隊の他に
迎撃部隊・対空部隊の併設が望ましいという結論になり、新設部隊用地の霞ヶ浦の埋め立て
工事が始まった。
しかし、昭和13(1938)年5月23日と9月22日に起きた茨城県沖地震は、各々M7.0、震度5、M6.5、
震度5でありながら、運よく人口密集地域にはさほどの影響はなかった。
比較的大型ではあったものの、この程度で被害が偶然とはいえ軽微となった理由の調査が
始まっていた。
その一方で、霞ヶ浦航空隊の飛行場、本部建築物周囲は地面がところどころ溶けたようになり、
大きな建物は、一部傾き危険な状態になるものもあって、余震が落ち着くにつれてまた地面が
固まっていくといった不思議な現象(☆)が見られたため、古代から1600年ころまで、付近全域が
「古・霞ヶ浦」の影響かと、これから開隊される迎撃隊用滑走路と対空陣地の設営は慎重に
ならざるを得なかった。
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(☆)これが「液状化現象」
として研究が本格化するのは昭和39(1964)年の新潟地震のあたりからのこと。
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●海軍霞ヶ浦基地航空隊(局地戦&)ー司令:少将、昭和17年8月開隊
●●飛行戦隊(局地戦)ー戦隊長:大佐
■戦闘機大隊ー大隊長:中佐,定数:36機
大隊本部:海軍零式艦上戦闘機[21型]
3個中隊
1個飛行中隊=3個飛行小隊(1個小隊=4機編成)
◎陸軍2式単座戦闘機・鍾馗隊(第一航空軍<0-2-3御参照下さい> が迎撃機として増援),
定数:9機
2個小隊+隊長期(中隊扱い)=中隊長:中尉
■高射砲大隊(大隊長:中佐)
◎99式8糎高射砲3個中隊(6個小隊=8.8cm砲12門)
◎20mm単装対空砲1個中隊(=3個小隊=6門)
◎1個照空中隊(=指揮小隊+2個小隊=4個分隊)
・大隊段列
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&局地戦:航空隊の編成単位で「局地戦戦闘機部隊」というのは正式にはありません。
「戦闘」「爆撃」「偵察」「教育(教導)」のいずれかです。
ここではストーリ-の便宜上設定しました。
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Ⅱ。アメリカの工業力の躍進とそれを目の当たりに見た日本航空隊
ドーリットル空襲は米国民の大歓迎を受けるところとなった。
しかし、時間がたつと、アメリカ国防省三軍の中では、
「もう少し爆撃規模を大きくして、ジャップのメンツをつぶそう」という意見が次第に大半を
占めるようになっていった。
そこで開発中のB29の完成をまって、
今度は
①房総半島方面と②中国大陸を経由して能登半島方面の2方向から、
各々36機編隊で帝都上空に侵入、空爆を行うという可能性を米軍では研究していた。
そして、昭和17(1942)年9月、B29の初飛行を終え、その計画の実行は、日本が比較的
のんびりしていると思われた42年大みそかと決まった。
それはドーリットル爆撃団から約8月後となるはずだった。
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次の話に進む前に、
#:日米の工業力の差をまざまざと見せ付けられる数字をお示ししたい。
#:そして、チョットデスネぇ~、多少歴史の「改ざん」という「ズル」・・・・・
具体的には「B29の実戦投入を昭和19年から初飛行直後への前倒し」をお許しを願いたい。
♪ ドーセ、与太話ですから、それくらいいーでしょ??
※:実際の話の内容と錯綜すると思い、表中には実戦投入日は書き入れていない。
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*第二次大戦中における、航空機生産量に見る日米間の工業力の差
同時期開発・同級航空機2組の比較
1>B-29 VS 連山 2>B-25 VS 100式重爆 3>ゲスト 2式水上艇
1>はあまりにも有名な「4発(片翼2エンジン機)」戦略爆撃機。
B-29の実戦投入日は1943年後半とも、1944年前半とも言われているが、そんな
ことは、枝葉末節の話で、初飛行から終戦までの3年弱で約4000機も量産したと
いうことが特筆すべき事項。
一方「連山」は構想は1941年からあったものの、やれ、戦闘機が先、船が先・・・
などど鉄の取り合いをしているうちに、戦局が悪化、4発機を作っても、護衛
戦闘機がいないんぢゃねぇ~とかなると、いきおい、設計陣に配られる研究費も
減らされるし、技術員の士気も下がります。
てなこととで、3年間で同じスタートラインに立っていたはずなのに、結果このありさま。
2>は特に、日本に言えることだが、戦闘機にさしたる後継機もなく、戦車も貧弱
船造計画も思うに任せず・・・その上アメリカはB-29に乗り換えてB25は戦争途中で
製造中止になっているはずなのに「吞んべえ・・・吞龍」の製造数はB25の1/10以下だ。
3>で単独で出した、水上艇、および表中にはお示ししていない司令部偵察機という機種は
生産台数も少なく、特に司令部偵察機は日本にしかない機種だ。
両方とも我が国のお家芸ともいえるほどで、前者は水上艇としては高速、なにより航続
距離が長く、この2点で他国を圧倒。どーしてこれをモデルに4発爆撃機を作らなかったの
だろーか?私には理解不能です。
司令部偵察機は、その時代の他国のどの戦闘機よりも速く飛ぶことができました。
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また、昭和16(1941)年、の自動車生産台数(小型から大型、乗用車から貨物用を含めて)
日本は4万台米国は200万台)であった。
ついでながら、ドイツ機甲軍からソセイランゾーとまでいわれた、M4シャーマン戦車は、独・伊が
降伏したのちは、2台に1台は予備車だったそーで、昭和20年に入ると、日本はおそらく「ジャブ」
くらいで、アメリカからはあしらわれていたと思われる。
日本は始めから戦争をやってはいけない国にけんかを売ってしまった(あるいははめられて
買わされた?)のだ。
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2013.2.23と4.18
どーしてアメリカと戦争したかな?①②
も、お時間あったらご一読(読んだら多分体にはご一毒)下さい
・・・だったら人様に勧めるな!!!
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第二次世界大戦時の列強国の兵器生産数 様
http://blog.goo.ne.jp/kodoku44/e/660fd0a1b30b44417067608241e840bf
こういったことは、国民総生産などで勝敗が決まる、あるいは結果論として
勝った方のGNP/GDPがはるかに上だったということがよく言われます。
昭和19年のGNPはアメリカ:日本=18:1だったそうです。
Ⅰ;戦車・駆逐戦車の生産数:我が国は米国の5.9%
| ドイツ | 37454輌 |
| 日本 | 4524輌 |
| イギリス | 22820輌 |
| ソ連 | 79733輌 |
| アメリカ | 77247輌 |
*内訳(判明分)
・日本:一式中戦車 340台 三式中戦車()は別統計 19年33(44).20年111(45)
この他に:全60台という記録もあります。
・ソ連:T-34(76mm砲)34780台、
1940-1944までに58000台製造の記録があって、T34(76mm砲)も入っているようです
・アメリカといえばシャーマン:どの文献も5万台前後
・ドイツ:文献はどれも37000台前後
Tiger Ⅰ 1350台、Ⅱ(Koenigs Tiger) 480? or 365?台
Panther type D⇒A⇒G total 3100? or 2953?
Ⅱ。航空機の生産数:我が国は米国の24.3%
やっぱりアメリカダントツです。
昭和16年ころのオネダンで、零式戦闘機1機3億円、B-29 同じく10億円。
| ドイツ | 117881機 |
| 日本 | 79123機 |
| イギリス | 131549機 |
| ソ連 | 158218機 |
| アメリカ | 324750機 |
Ⅲ。開戦後の日米艦船建造数
ま、ご覧のとーりです。
アメリカは、戦艦・空母についてはパナマ運河を通って必要あらば
太平洋・大西洋かけもちしなければなりませんでしたので、
テキトーな範囲の巨艦で高速船、類型艦を多数量産しました。
大和は竣工年度(昭和12[1937]年)の国民総生産GDPの1%をかけて作りました。
現在の日本の国防費がその年度GDPの1%ですから、大和はあらゆる意味で
スゴイとしか言いようがありません・・・
Ⅱー1 二度目の帝都空襲;B-29 2個飛行団
・・・・の予定でしたが・・・・ここで少し時計を過去に戻します・・・
<昭和11-25(1936-1950)年に起こった主な地震>

*Mj:気象庁マグニチュード、Mw:モーメントマグニチュード
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*マグニチュードは地震のエネルギー(E)と対数関係⇒logE//1.5M,
対数に比例して、比例定数は1.5
たとえばマグニチュード4から5に地震のエネルギーが増えたとしましょう.
マグニチュード5の時のエネルギーをE5マグニチュード4の時のエネルギーをE4とします。
すると・・・logE5-logE4=1.5x(5-4)の関係が成り立ちます。
⇒logE5/E4=1.5⇒E5はE4の10の1.5乗倍のエネルギー差
すなわちE5/E4=10x√10≒10x3.1622=31.62・・・マグニチュードが「1」増えるとエネルギーは31.6倍
logE6/E4=1.5x(6-4)⇒E6/E4=10x10x10=1000・・・マグニチュードが「2」増えるとエネルギーは千倍
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と申しますのも・・・
表中*東南海地震では名古屋地区の「三菱重工業」「中島飛行機製作所(現・富士重工)」といった
航空機産業が壊滅。戦局も大方決しようか?といった段階まで迫っていたため、報道管制を敷くやら
当初の「遠州灘地震(震源は熊野灘沖)」を東南海地震とし、国民の士気が粗相しないよう必死の
帝国軍隊であったが、日本上空さえほぼ連合軍に制空権を握られたとあっては、連合国こーくーき
から、「中部日本で大地震が起きて軍用機工場2つがつぶれたぞー!」といったビラや「名古屋地区
大地震、工業地帯に甚大なる被害、今後の武器製造に影響か?」と書かれた邦字新聞をまかれたり、
遊ばれ放題で、結局ほぼ、地域の住民の知れるところとなった。
太平洋戦争物の刊行物で、詳細不明の点が多く十分なことが書けないといった不便さが
あるのかと思うが、自分の知る記憶では、これらの地震が戦争継続力に影響力が出たと
はっきりお書きになっておられた作家さんは、児島 襄 氏が印象に残るだけである。
まーね、大勢が決した後なので、歴史小説を書くときに、地震の話を、入れても入れなくても、
終着点は変わらないんだろーけどね。
ところで、このころの地震といえば、先に霞ヶ浦飛行隊のところで御紹介した昭和13年の
2回の茨城地震。
さらに、古くは
*関東大震災:大正12(1923)年9月1日,M7.9
⇒現在「防災記念日」ともなって忘れ去られないようになっている。
※日本海側の
*北但馬地震:大正14(1925)年5月23日、M 6.8.震央至近:豊岡、震度6。
震源は河川河口付近機序不明。
*北丹後地震:昭和2(1927)年3月7日、M 7.8-8、震央至近:豊岡-峰山町(現・京丹後市)
震度6、直下型。
※天橋立:我が国唯一の内湾砂嘴はいかにしてできたか?6000年ほど前に、海底の
地殻変動による海面上昇+2000年前の地震>が主因となっている・・・というところ
までが、現在地質ちょーさが進んでいるとのこと。
今後とも地震には一番注意すべきポイントの一つと思われる。
******************************************
お時間のある方
マツバラ・ミホコさんの場合 2013.5.4 の御一読を・・・
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さらに
昭和三陸地震昭和8(1933)年3月3日M8.1
宮城県沖地震昭和11(1936)年11月3日M7.4
などがあり、そのほかにも、太平洋側にはプレート型、内陸の直下型が散見される。
お示しした。
また、福井地震では「プレスリップ」現象が見られたとか・・・
<プレスリップ>
地殻内部の圧が高まり、地表までに至る、細かい亀裂が入る。
そこでおわり・・・というのもあれば、もっと深層にある地層が浮いて、ずれる場合まで、
さまざまだそうで、大きくずれるときは;震度6程度にもなるとか?
コメントでかつだんそーとどーちがうんですか?ですとか、東海地震は起きますか?
なんてご質問は勘弁してくださいよ!!
たった一つだけ言えることは、プレスリップはどこでも起きる現象である。
なので、活断層が連続していても必要以上に怖がらない!
活断層がなくとも絶対安全と油断しないことが大事と思われる。
****************************************
お時間ある方、「褶曲地に立つ、2013-5-26」もご一読ください。
***************************************
☆国内での誘発地震はは2例の地震がその後おこった地震との関連性との証明がなされている。
三河地震(1945年1月13日発生/Mj 6.8/大陸プレート内)
福井地震(1948年6月28日発生/Mj 7.1/大陸プレート内),死者3769人
なお、東南海地震の前年の1943年9月10日には鳥取地震(Mj 7.2)が
発生している
②本震:東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日発生/Mj8.4、Mw 9.0/海溝型)
誘発地震のうち、ここでは最大震度5強以上の地震を記載する
(誘発地震の余震とみられる地震は除く)。
長野県北部地震(同年3月12日発生/Mj 6.7/大陸プレート内)
静岡県東部地震(同年3月15日発生/Mj 6.4/大陸プレート内)
秋田県内陸北部地震(同年4月1日発生/Mj 5.0/大陸プレート内)
茨城県南部地震(同年4月16日発生/Mj 5.9/海溝型
長野県中部地震同年6月30日発生/Mj 5.4/大陸プレート内)
栃木県北部地震(2013年2月25日発生/Mj 6.3/大陸プレート内)
日本 史上最大級の各地の地震活動に与えた影響は大きい・・・」
プレート型地震が起きるたびに、薄い層がドンドンはがれ、そこの隙間に
海水がしみこんでいった。
明らかに、プレスリップなどの回数からしても、いつしか地球は太平洋側に
飛びがした形の・・・隆起したというべきか?・・・とにかくだ円形になり、
地軸の傾きも24.3度から大きく傾いていくのであった。
Ⅱー1’-0 太陽の困惑
20世紀に掛かるころから、第3惑星の「地球」の地殻変動がふえてきているのが気になっていたが、
1930年代に入り、地球から自分の惑星群を確認する・・・いざとなったら自分も老眼鏡か?とため息を
つきながら
水ー金ー地地’ー火ー木ー土ー天ー海ー(冥)
「やっぱり地球だけがおかしい・・・」
太陽は地球から目を離さず3日間寝ずの番をしながら見張っていた。
すると元々の地球?は地軸が24.3度の傾き・・・もう一方は・・・26度だって?
この後完全に2個に。そして傾きも30度になった。太陽は、いつも困ったときに相談に行く。
プロキシマ・ケンタウリケンタウルス座のV645星という15.53等星のちょっと老けたと
言えば当たり前か、太陽より歳取ってるもんな、赤色矮星なんだから・・・
でも経験だってあるしさ、いざとなったら、まだ体動くし
なんせ4.22光年という距離がえかったね。
「なかのぞいてみた?」
「いちおー・・・」
「両方とも捨てがたいでしょ、片方の陣営が常に押されているでしょ。
結局は同じ終末を迎えると思うよ。
それで生きている人間が多い砲の地球を救えばいいだけぢゃないの?」
「もう片方は?」
「おもいきってダン・シャ・リ!!!」
「人事だと思って・・・」
怒ってV645の元を飛び出してきた太陽だったが、それしかないのかと
考え直すしかなかった。
駅のカピタン、今(こん)ー1/2 了
Ⅱー1’ さて、パラレルワールドに引き込まれた大日本帝国
本来ですとこれからが正念場にっしかかりますが、どーなるのでありましょーか?
昭和17(1942)年12月31日深夜、予定通り、改良型B29の2個飛行団が日本列島の
南北からやってくる。
迎え撃つ帝国の迎撃機・・・
お?何か変化が・・・
パラレルワールドでは、日本はドイツから、ジェット飛行機、ロケット飛行機などの設計図、
施工に難しい個所の実物部品を貰うことに成功していたのでした。
では「駅のカピタン、今(こん)ー2/2で」・・・
