「広瀬」と申しますと、県外の方はあまりなじみがないかもしれませんが、そこに「月山富田城」がそびえたっていたと申し上げれば、歴史や大河ドラマにお詳しい方であれば、
「尼子氏の本拠地ネ」とすぐおわかりいただけるかと思います。
その広瀬の町並みは松江に繁栄をもっていかれ、、山陰線も通らず、やはりここは、「自前で鉄道をつくしかなかろう」ということになりました。
当初、より大きな安来駅を起点にする予定でしたが、
①飯梨川の架橋建設の困難さ
②県庁・鳥取へより近い駅への選択(多分、これは、安来と連絡を取れなかったてれ隠し
だと思います。鷺の湯から荒島まで5.8km、揖屋まで6.7km、東松江まで9.4km
安来まで7.8kmなので、安来まで行く気があれば、少なくとも揖屋まではいけます。
二次世界大戦も終盤になると、国策による無理な合併政策にも従ワざるを得ず、
昭和19年隣県の伯陽電鉄と合併「させられ」山陰中央鉄道・広瀬線となりました。
*伯陽電鉄:旧国名「伯耆」の「伯」と「山陽」の「陽」をとっていますので、一応、「陰陽連絡鉄道」が目標だったようですが、昭和19年当時でさえ経営自体はヨレヨレで、国からは不急路線扱いだった路線です。
<広瀬鉄道略歴>
営業キロ:8.3km,開業時より全線単線600V電車線、交換設備駅:飯梨
<広瀬の町並みのビックリ>
その①
飯梨川を始めとして、周囲の河川から多数回の水害にあっているそうですが(特に1666,1668,1669.1673年は毎年のように)、昔の街道が今の飯梨川で、昔の飯梨川が今の国道432号線に当たるのだそうです。発掘調査で確認が取れています。
その②
交差点の停止線が随分前にありまして、なんか意味あんのかい?と思っていたら、それくらい道をあけないと、バス・トラックは曲がってくることが出来ないようでした。
でも、34年前の話ですから・・・今はもっといいと思います。
<一畑電鉄終点・出雲広瀬駅の写真を取ってきたつもりが、34年たって、「步鉄の達人」様の炯眼によって自分の「アホさ加減に気づかされる>
昭和54(1979)年3月20日、出雲広瀬駅の正面だけでも写真に撮ってこようと、行ってきたのですが、「步鉄」様は「駅の位置が南へ1.2km程動いているのではないか」との御指摘。
「廃線探索 一畑電鉄広瀬線」
http://www.hotetu.net/haisen/Chugoku/111106ichibatadentetuhirosesen.html
私のように、レンタカーでツツツーといって、はいパシャ、とやっている連中には及びもつかないことでありました。
広瀬線のターミナルかとおもいましたが・・・ 昭和54(1979)年3月20日撮影
<月山富田城>
昭和54(1979)年登って参りました。月山という標高197mの独立丘にあったといわれる典型的中世複郭式山城といわれましてもですね~?。最盛期には、戦時大小300の出城・砦が出たと
いわれております。東の春日山城(上杉氏)と並ぶ、日本を代表する山城です。
広瀬の町の繁栄は尼子氏の活躍抜きで語れませんが、尼子経久が基礎を作り(1486年:富田城奪還)、孫の晴久の代に(山)陰陽八ヶ国守護の大大名となりました(1540年代)。
ところで、尼子氏の親族に「新宮党なる一族」がおりました。晴久君あたりですと、もういとこ同士くらいになりましょうか。
もーりもとなりさん、そろそろいいかな?と思いこの新宮党に「そろそろウチにこないかい?悪いようにはせんよ!」とわざ「尼子方」に見つかるようにせっせと「密書」を送り続けます。
新宮党は最後まで主家を裏切るつもりはなかったようなのですが、密書をイーだけ見せつけられた晴久君は1554年「新宮党」を粛清、悪いことは続くもので、晴久君が急死して、義久君が1560年当主になりました。当然狙い目なわけです。もーりさんに1565年についに尼子氏は滅ぼされてしまいました。
そして、堀尾氏が一旦1600年新城主として入城しますが、1611年松江に新たな城を建てそちらに移り
廃城になりました。
しかし、大手門から三の丸に至る通路は、一列縦隊がやっとの急こう配で、上からねらわれたら全滅だろうなーとおもいました。縄張りもよく考えられていると思いました。
おまけ・自作の地図です。駄作ですがおもろいから載っけることにしてみました