ものがなかったころの駅・・・浜松 | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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残り少ない余生をテキトーにいきていくブログ
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  せん。

余生庵 カラスの晴耕雨読ぶろぐ…クンセイになるカモ

●撮影日:昭和54(1979)年3月24日


「国鉄」で松江から札幌まで帰って来る途中で、京都から東京は各駅停車で乗り通しました。

それでも、東海道は約12時間で終わってしまいました。

その途中、昼食は是非「浜松のうなぎの駅弁で」と思い、下車ついで、駅舎も撮影となりました。


江戸時代、一般的な脚力の人が東海道を歩ききった場合、12日かかっていたそうですから隔世の感があります。

また、北海道人から見てもっとびっくりしますのは、日本橋を出発すると、最初の東海道の宿場は「品川」なんですってね?


浜松駅舎の話をします。
空襲で昭和20(1945)年6月10日焼失した2代目駅舎の後、昭和23年10月15日に出来た木造2階建ての3代目駅舎と伺っております?・・・「こだま」のみ停車の時代です。
約3年の間駅舎は無かったのでしょうか?それとも途中の資料・記録が消失でもしたのでしょうか?

日本では昭和22-23年が一番物不足の時代と言われていますので(事実昭和22年には石炭が足りなくて急行列車が約半年ほど全面運休いたしました)、こんな、高校の体育館のような駅舎しか作れなかったのでしょう。

駅舎の中も、打ちっぱなしのコンクリートが割れて建物が酷使されていたんだと思いました。

・・・それにしても、浜松の北方・三方原の高射第一連隊、陸軍航空部隊(飛行第7連隊、浜松教導飛行師団、三方原教導飛行団等)は、「戦争の大切なサポート役である鉄道」に対して何もしてくれなかったのでしょうか・・・?