大和型3番艦・航空戦艦「信濃」推参・・・その1 | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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◇監修 左上野 老鶴 ◇GM 経田野 横鋤 ◇照明 当代元 蔵志
☆余生を送っている人間が書いている記事ですので、恐縮ですが
 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。


<例によってマエフリがながーーーーくつきますが、御容赦ください>

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昭和19(1944)年春、ミッドウェーで沈められた空母群を含めた聨合艦隊を再建しようと、帝国海軍は必死でした。


ところが、開戦前からうわさされていた工業生産力の差は、すでに開戦8ヵ月後の昭和17(1942)年夏には、現実のものとなり、それを実際につきつけられた最初の戦いが、ソロモン沖海戦でした。


緒戦こそ三川提督の重巡洋艦部隊が、帝国海軍伝統の夜戦と鍛え抜かれた乗員の優秀さで、ほとんど無傷で相手方に大勝ちした(8/8の第1次)以外は、2次、3次ともボロ負けで、以後は、戦史に詳しい方でしたらよくご存知のように、


ガダルカナル、南洋諸島と手放し(昭和19年7月サイパン島、8月グアム島相次いで陥落)、10月レイテ沖海戦で聯合艦隊は組織的活動ができる状態ではなくなってしまいました。

(第二次)ソロモン沖海戦は、「物量で差がつくなら精神力と訓練で相手との差を詰める」と公言していた帝国海軍の自信を喪失させる、精神的にも大きな転回点であったかと思われます。


以後は、将兵も日記などで物量差には触れていますが、ホンネは陸戦も海戦も、回を重ねるにつれ、むしろ物理的な数量以上に日米間での個々の装備の質の違いに絶望的となり戦い抜いていたと思われます。


オマケにこの年(1944-昭和19年)の3月に一人の陸軍司令官の気まぐれから「インパール作戦」なる


「たぐいまれなる僥倖と神のきまぐれに恵まれれば、作戦の一部はひょっとしてうまくいくラッキーな可能性を秘めていたかもしれない!?という「テンイムホーな」作戦が発動になり・・・結局・・・


投入兵力9.2万、戦死・行方不明2.6万、戦病(戦病死8千含む)3万以上、と損耗率61%も、あ~あ、だしちゃって(数字には諸説あります)、1コ軍としては戦略単位として機能できなくなるまで、やらせておいて、上層部は離れたところで高みの見物、最後は完全に失敗するといった、一人でもヘータイさんがほしい時期に、子供でも、おかしいとわかる作戦を立てて消耗・後退を余儀なくさせられていました。


ここでは、「ビルマ戦線を立て直す」野望・・・というより・・・モーソーにちかいです・・・ビルマ戦線の英軍を圧倒し、蒋介石への援助ルート(援蒋ルート)を断ち、なおかつ、ビルマ北方の要衝、インパール・チンドウィンまで、雨季でザバザバ道の3000m級の山脈を南から攻めあがって占領、ビルマ、仏印の領土固めをしたいと・・・


確かに、昭和17年中盤まででしたら、価値があった作戦かもしれません。しかも5-10月は雨季ですから攻めるのでしたら、5月まででした。ここをその時とっていれば・・・

まー、やめておきましょー、どーして、どーしてになってしまいます。

しかし、負けが込んできたところに、「俺が一旗揚げて、カタキをとってやろう」気分で、この作戦は立案されました。


また悪いことに、このころ、太平洋諸島での日本軍守備隊の玉砕が続き、「ビルマ方面」に詳しい師団長クラスの高級将校の転出が続いておりましたので、残った将官クラスはおそらく「ヤリタイ放題だったと思われます。


かくして、陸軍の、名前を出すにも旧軍の無知をさらすようで書きたくありませんが、仮に、M・牟田口廉也中将とでもしておきましょーか(コラコラ!!!)


ビルマを抑えるどころか、補給路は空中からヘリコプターで充分与えられていたウィンゲート少将率いる英印軍団(円筒作戦)に、帝国陸軍のビルマ戦線はビルマ全土に亘って崩壊を招き、撤退を余儀なくされ、インドのチャンドラボーズとも共同新政府構想立ち消えとなり、日本は、タイ以西の領有権を全く喪失するにいたりました。


そんな中、陸軍がへまをすれば、海軍だって焦りは出ますよ。

「不沈空母」と呼び声が高かった「大鳳」が米潜水艦アルバコアの6発はなった魚雷の一本が右舷前方に命中・・・

この時点では28ノット(最大船速33.3ノット≒61.7km/hrで航行・・・さすが!と思わせましたが・・・すでに船内では不幸が始まっていました・・・


理由は一つではありません!不幸な偶然もありました!!


たとえば、

●前部甲板の昇降機が下部の戦闘機格納庫から1mのところで零戦を乗せたまま前側に傾いて停止。

●→艦内にあった応急処置用の丸太をかき集め、停止した昇降機の上に食堂の椅子や机を櫓状にくみ上げて昇降機の穴(14m四方)を塞ぎました。

●艦上攻撃隊指揮官がその強度を確認し、搭載していた魚雷や燃料を降ろして軽くした機体を発艦し「瑞鶴」に移動]

●速力は船体の沈下によってさらに26ノットに低下。艦首の沈下は内務科・補機分隊によって左舷後部への注水が実施され、早々に是正できました。

***相当船体を立て直すのにジタバタやっています・・・さらに・・・


□しかし被雷直後より下部格納庫の前部昇降機付近よりガソリンの湧き出しが始まっていました。

魚雷命中の衝撃で破壊されたガソリンタンクから漏出したガソリンが、周囲の浸水によって格納庫にまで押し上げられていたと考えられます

気化したガソリンは格納庫を始めとした艦内に充満しつつあり、換気作業も急がれました。

気化したガソリンを吸入して失神する乗員が続出] 。火花を恐れて工具の使用が制限され、作業がはかどりませんでした。格納庫、発電室壁横にも穴があけられるほど必死の換気作業が行われました。

***しかし・・・最終的には・・・

◇気化したガソリンに引火し、「大鳳」は大爆発を起こします。始めは艦橋付近で爆発、大火災が発生、続いて飛行甲板にも同様に爆発と大火災が・・・。

◇航海士が艦橋後部に設置されて遠隔操作の消化装置を作動させたが鎮火しませんでした。

◇最終的に左舷から沈没。



<簡単・・・でもないか・・・に沈没した原因にふれておきましょー>

◎「タンクからのガソリン漏れ」を一番とする研究者のか方が多いようです。

  タンクは被雷の衝撃で継ぎ目がはずれるほど当時の電気溶接には強度上問題あり。

◎→時代と共に周囲を水、もっと後ではコンクリートで覆うという工夫ぬになっていきます。

◎格納庫の通風装置が貧弱であった。

◎被雷の衝撃で、故障した艦載機用エレベーターが途中で停止、急遽エレベーターの上に机などを積み上げて応急処置をし、飛行甲板の開口部を塞いでしまいました。

→艦内には気化したガソリンが充満し、戦闘中のため充分な換気が出来なかった。

→→もしエレベーターを降ろすことができれば、気化燃料を、あるいは万一引火したとしても爆風を、開口部から逃がすことができたかもしれなかった?

◎工作兵がエレベーター開口部を塞ぐことに集中、揮発油タンクの修理があとまわしにされた


☆<ボルネオ原油>の件

◎搭載されていた艦船用燃料が、ボルネオ原油を主原料に精製された燃料だったことも、大きな要因と言われている

◇原油のうち、重質性が高くそのままでも船舶用として精製なしでも補給できるほどのボルネオ原油でしたが、

→一方で、不純物を大量に含む未精製の原油をそのまま燃料として使用することにより、機関部の損傷、劣化などが昂進し、大規模な補修なしに艦船を運用することが、いずれできなくなることの弊害の他、ボルネオ産原油には、揮発性が極めて高く、発火点が低いという特性があり、ほぼ、未精製の原油を燃料として軍艦に搭載することの危険性が、かねてから指摘されていた。


■結局、上に挙げたくさんの要因が積み重なっての不運なといえば不運、末期的軍隊の末路といえば末路であったと言えましょーか?

☆当時、戦略的に作戦する機能も訓練する人材も、船舶燃料の件など、こうした意見を聞き入れる度量も既になくなっていました。

→稚拙な一時凌ぎの作戦に狂奔していた海軍首脳陣には、こうした安全面の配慮は顧みられることはなく、結果的に、被雷一本という「本来、大型艦艇にしてみればカスリキズ」で、正規空母一隻を失うという高い代償を払わされました。

☆日本海軍では軍艦の搭乗員は、最低半年~8カ月の期間を訓練・養成を行っていましたが、竣工後、このころは訓練期間にそれほど余裕がなかった事も原因の一つでしょう。


これとても、工期短縮せずにじっくりと考えていたら防ぎえたかどーか不透明なところです。

しかし、工期短縮のあまりの事故といえば事故といえるでしょう。


さて、海軍省と海軍軍令部は、次期大和型大型戦闘艦をどのような扱いにするか迷っていました。

一つには、設計上船長266mの船体を持つフネを造るのであれば横須賀しかない。

現在、大和型3番艦「信濃」に相当する艦艇はドックをうめているが、こんなデカ物を1隻造るなら、雲竜型中型空母を2隻造りたい・・・でも・・・このでかいのはどーやって動かすの・・・一回解体?・・・現場は混乱、士気は下がっていくばかりだったようです・・・


そーこーしているうちに、大和型戦艦の象徴でもある46cm砲を呉工廠から横須賀工廠へ運搬するために必要な専用輸送船「樫野」が9月4日に米潜水艦によって撃沈され、本艦を大和型戦艦として建造することも難しくなりました。


ここに至り日本海軍は「大和型戦艦」を航空母艦 へ設計変更したとしても、対潜円陣形は雑木型駆逐艦(正しくは「松型および改・松型」)で目処が立ったが、将来的には、航空消耗戦で空からの援護が得られる保証がまるでないので、伊勢・日向型を大幅スケールアップした、航空戦艦を建造することとしました。


特に昭和20(1945)年8月12日の日ソ不可侵条約切れ以降、USSRがどのような行動に出てくるか全く予測困難であるので、万が一、宗谷海峡、間宮海峡を機雷封鎖されても、樺太、およびウラジオストックを航空機または艦載砲(射程100-150km)で攻撃できるよう、長距離砲の研究からはじめられました。


すなわち、艦載砲でいかなる砲撃もアウトレンジしてしまう、時代と逆行する大鑑巨砲主義の復活ともいえます。

艦名は大和型3番艦、航空戦艦「信濃」と名付けられました。


注目の、

艦載砲の研究対象になったのは、

・ドイツ帝国列車砲:通称パリ砲

・ドイツ対空12.8cm砲flak40

・帝国陸軍試製155mm高射砲(のちの5式15センチ高射砲

・帝国海軍65口径98式10センチ高角砲


以上の4種で時間も限られていることから、砲身長が30mを越えることがあれば2門のみの装備とし、

他の長距離砲は別途考えることとし、

また、機雷・魚雷対策も新機軸の導入を時間が許す限り考慮してみることになりました。


そして、秘中の秘、巌谷英一中佐が持ち込んだロケット戦闘機「Me163B」の設計図が終戦に間に合わなかった局地戦闘機「秋水」の元になったのは有名な話ですが、実は彼が日本にもたらしたのはそれ以上に破壊力に富む兵器の、こちらは設計図と製造過程一切を掲載してある資料でありました。


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