NHK朝連「あまちゃん」 | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

残り少ない余生をテキトーにいきていくブログ
◇監修 左上野 老鶴 ◇GM 経田野 横鋤 ◇照明 当代元 蔵志
☆余生を送っている人間が書いている記事ですので、恐縮ですが
 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。

「あまちゃん」が始まったころ、ニョーボに話のあらすじを聞いたら、

「三陸地方の僻地で育った人間が、将来的にアイドルになっていく成長過程を盛り込んだ話>らしい・・・」


もー、すでに、その瞬間、私の頭の中の図式は「タイトルのあまちゃん=アマチュアのこと→プロフェッショナルになっていくお話」でジューマン・・・

ニョーボに話してみると、「あまちゃん」は「海女」にきまっているでしょ、と世界遺産・霊峰富士山の3776mより高い目線からの一言。


えーえー、どうせ私は、その時間帯は新聞を広げて、一心不乱に朝飯を食っているだけの、ツーキンおやじですよ・・・


ところで、8/14放送分「あまちゃん」ですが、セリフの中で「架線が張ってなかったべ?だからあれは電車ではなくてディーゼルなの・・・」ちょっとちがうかもしれませんが、そんな会話がありました。

NHKさんも話が複雑になるのを避けるために、説明を単純化したのだと思いますが、


昔々、「宮崎鉄道」(位置的にはJR九州・日南線に酷似)というのがございまして、昭和18(1943)年、国策に従いまして、宮崎交通と合併、同社の「鉄道部」となりました。

そして昭和25(1950)年南宮崎・青島間に「蓄電池電車」、昭和26年蓄電池機関車運転開始となりました。


この、蒸気・内燃動力を使用しなかった理由として、戦中・終戦に至るまで、酷使され、また整備員の不足した状況下での荒廃した鉄道設備を復活させようとした前に立ちはだかったのが、終戦後間もなく始まった化石燃料の異常高騰をはじめとします強烈なインフレでありました。そのため、補修には多額の金銭が投じられなければなりませんでしたが、ピッカピカの安全かつ新品への設備更新を推進できたのは、在京大手私鉄など数えるほどしかありませんでした(国鉄でさえ昭和22年、石炭不足のため(なのか入手不足なのか?)、半年ほど全国で急行列車が一本も走っていなかった時期がありました)。


そのため、日本各地の中小私鉄は、化石燃料の購入+自社路線の整備更新双方が可能なユーフクな企業は、どこにもないといった状況で、ならばせめて、自社の復活をかけて、路盤と信号システムの改善+鉄道線を電化しスピードアップに取り組む鉄道がいくつか出て参ります。


そんな試みが、昭和20年の近江鉄道旧湖南鉄道線からはじまり、昭和24年の8路線をピークに、昭和27年の西武鉄道・西所沢ー狭山湖間まで、28社35路線に及びました。


中でも、宮崎交通は「蓄電池電車」を走らせるというユニークな手法を選択しました。

元になった車輌は国鉄の「12mガソリン動車、キハ40000形の国鉄払い下げ車」で、「大阪市・広瀬車輌」が床下エンジンと変速機を直流モーターにかえるというやり方でした。


具体的には、約1トンの80Vの蓄電池電池箱を2箇所に搭載。定格出力は50kwですから、今の電車モーターの1/4位。車重は約20トンで同じく2/3程。そーしますと、馬力/重量=0.38という計算値で現在の電車の35-40%のパワーといったところでしょうか。


蓄電池は南宮崎ー内海(始めは青島)を1往復すると、充電してあったバッテリーとのせかえていました。バッテリーの廃棄は1.5-2.0年をめどにしていたようです。


この、蓄電池電車の「ユニーク」差は県内に元々「バッテリ・バス」で名声をはせた会社があり、鉄道車両もその延長上にありました。


これら」一群の蓄電池車両軍は「電車」が「チハ101-103・・・<チ>は「蓄電池」の意味」、機関車が「ED1-3」と届け出の上では立派な「電車」と「電気機関車」でありました。

宮崎交通は、このスタイルで昭和25年から37年まで姿を変えませんでした。


ですから、パンタグラフがないからといって電気車でないと決めつけることはできませんし、このほかにも、地下鉄や横川・軽井沢アプト線は第3軌条ですのでパンタグラフはありません。


NHKさんもうるさいオヤジに捕まると大変ですね・・


<参考>RM LIBRARY 69 宮崎交通鉄道部 田尻 弘行 著 2005