友人の伯父 | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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残り少ない余生をテキトーにいきていくブログ
◇監修 左上野 老鶴 ◇GM 経田野 横鋤 ◇照明 当代元 蔵志
☆余生を送っている人間が書いている記事ですので、恐縮ですが
 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。

8月6、9日といえば、日本の御一家の中には、8月15日の終戦日より重大にお考えのご家庭も少なからずおありでしょう。


原爆の投下(マンハッタン計画をはじめとする一連の実験・運用)にはルーズベルトさんは100%強硬にやるぞ!!といった人物ではありませんでしたが、ルーズベルトさんが急死したことによって、トルーマンさんが政権を引き継いで、原子爆弾の扱いの風向きが急に変ってしまったよーです。


昭和20年6月、シカゴ大学の何人もの学者先生の代表7名の連名で「社会倫理的に都市への原子爆弾投下に反対」といった内容の報告書を大統領に提出ておりますし、


軍人さんの中でも、アイゼンハワー将軍が、対日戦にもはや原子爆弾の使用は不要であることを昭和20年7月20日に同大統領に進言しており]

日本人には悪名高き、あの!!アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督も、都市への投下には消極的であったと伝えられております(この提督は、マッカーサー将軍と共に、皇居への空爆を厳禁としていたことはあまり知られていません)。


落下都市の選定には、盆地のような被害が局地的に一極集中できて、ある程度まとまった人口があり(死傷者のデータがとりやすい)という項目も基準に入っておりまして、


最初、第一候補は京都市でありました。


それに猛反発した、親日派というか知日派とでもいいますか「一番の古都を壊滅させると、後々、日本人への遺恨を残す」とご指摘された学者氏の意見を取り入れて、第一弾は広島ということになったようです。


さて、例によって、マエフリがいよーーーーに長くなりましたが、表題の「私の友人の伯父さん」は初めてお目にかかったのが、20年ほど前で、当時は町の剪定士さんをなさっておいででした。もう、亡くなってから10年近くなりますか?


昭和20年8月15日には中尉相当官の軍属(軍の重要な産業・研究開発にかかわる外部機関集団・・・というとチョットこれまたちがいますが、そーゆーことにしておいてください)で、広島から約80km離れた尾道市に船舶のディーゼルエンジン制作所の責任者をされておられました。


「といってもネ、動かす油なんてモーないわけ。ディーゼルエンジンと言えば聞えはいいけど、実際は、単気筒の焼玉機関を作っていたの。沿岸機雷除去用船の。

もうその頃、日本の沿岸警備艇なんかは木造船でした・・・」


えらくきさくな伯父さんで、友人も朗らか奴で、まー、家系的なものでしょう・・・


この伯父さんに、「廣島が大変なので、急いで向かわれたし、食糧、衣類、医薬品をもっていくのならなおよし」と陸軍から伝令(無線も入らなかったそうです)が入ったのは、17日未明で、とにかく、山陽本線で広島までの全区間は乗りとおすことができず、広島より20km程先で下車、あとはあるいたそうです。


夕方近くにやっと着いて、指示された、救護所につくと、ベッドより、床、果ては、建物の外に寝かされている人間の数の方が多く、それでも、包帯や、ガーゼで処置を受けている人たちはまだまともな方だったといいます。


こんな状態が10日ほど続き、その間、薬品の買い出し(旧・広島師団本部?宇品軍港・呉軍港)、洗濯、患者の介護・・・へとへとになって尾道に帰ってきました。


平成になり、白血病の疑いがあるといわれ、大きな病院で検査を受け、翌年もう一度検査を受け変化がなかったことから、原爆の影響だろうということで、札幌の大病院の診断書で「原爆被爆手帳」が発行されたそうです。


原爆が落ちてから50年もたってから「原爆手帳」が発行されるのにはびっくりしましたし、

50年間恐らく、白血病直前で悪化を免れていた骨髄にも敬意を表したいですし、

伯父さんの

「今でも、時々、原爆手帳の申請が数件ずつあるみたいだよ」

というお話にはもっともっとびっくりしました・・・


多分、当時、広島や近隣の自治体に住んでいた人々にはこれからも、何らかの形で保護・支援がつづくことでしょう・・・


では、福島原発の従業員、付近の住民の方々への補償はいつまでつづけてくれるのでしょーか??