☆冬場の氷で接岸不能となった大泊港沖で荷役作業をする亜庭丸[鉛筆:2B,F,2H,4H,色鉛筆
ゲルボールペン:Slicci0.3mm Pentel)、修正液
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稚泊連絡船(ちはくれんらくせん)は、太平洋戦争終結前の鉄道省により稚内と当時日本施政下であった樺太の大泊(現・コルサコフ)の間で運航されていた鉄道連絡船です(稚内・大泊間で「チハク」航路とも)。
ルート開設は、大正12(1923)年と古く、営業距離210kmに8時間30分(冬場は9時間)かかって(平均24.7km/hr)おりました[営業113.0kmの青函連絡船は当時4時間で(平均28.3km/hr):当時からすでに津軽海峡は軍事的にも重要な経路でありましたので、開業当初から快速優秀船が優先的に配置されていました)。
冬場は、宗谷海峡が流氷で覆われましたので、砕氷船が使われました。
それでも、大泊はもとより、稚内も流氷に閉ざされて、港内にはいれず、荷役・ヒトの乗下船とも港外でおこなわれたこともあったようです。
実際のところ、砕氷船が就航したといいましても、ドコゾノ余剰船の先頭部分に圧延金属板を張り付けただけだったりしたものがほとんどでしたから、出力は弱く、グイグイ氷を割って前進!という船は「壱岐丸」以外にはなかったようです。
さすがに、これではアカン・・・と鉄道省では考えたのでしょう。今度は本気の「亜庭丸・・・大泊港がある湾の名前」を昭和2(1927)年に、昭和7(1932)年に「宗谷丸」という3000tonの新造船を造って就役させます。
ただし、こちらは、軍用艦ではありませんから、出力は6000馬力と弱々しいエンジンしか与えられませんでした。
軍用艦なれば、大正12(1923)年竣工、軽巡洋艦「夕張」の2900ton/57900PS、あるいは、昭和17(1942)年竣工、防空駆逐艦「秋月」の2700ton/52000PS・・・という具合になりましたが・・・この2艦は最高船速が61km/hrですので、もとより比べても、仕方のないことです。
問題は例の昭和20年8月15日以後の話で・・・
8月24日 -「例の中国東北部、北朝鮮、南樺太、千島(占守島)などに,ソビエト連邦は、一斉に怒涛のような攻勢を仕掛けてきました。
同日未明、ソ連軍の制止を強引に振り切って、「命からがら」、樺太からの最終便(宗谷丸)が稚内に到着したことをもって、稚泊航路は終焉となりました。
グタグタ書いて参りましたが、私の父が、旧制中学の1,2年生を大泊に通っておりまして、昭和15-16(1940-41)年のことでありました。少しは太平洋戦争と時期的に重なっておりますが、日本がまだまだ活躍していたころです。
でも、もう少し、父が、樺太に行くのが遅かったら、自分もこの世に出てこなかったかもしれない・・・と夏が近づくたびに考えてしまいます。
