源義経君は、岩手・衣川で、実兄・頼朝さんの差し向けた軍勢に手も足もでず、挙句、火を射掛けられて、最後の退路まで絶たれ、「もはやこれまでか?!」と悲壮な覚悟を決め、一方でヒジョーに困惑しておりました。
実は「武蔵坊弁慶」、彼は九郎判官義経の御家来衆にして、「当代一の豪傑」とヤマトの国にその名を煌々と知らしめた人物となったのですが、こーなってしまえば足手まとい・・・
実は彼はイロイロな肉の塊に、目のところは象嵌をはめ込み、真言密教で禁じ手とされた「反魂の術」で命を宿らせたただの肉塊・・・それがばれたら・・・「オレは、悲劇のヒーローになり損ねてしまう・・・」と我と我が身を案ずる義経君でありました。
ショーがないので、弁慶にはまた死んでもらいましょ-か・・・
案外残酷な義経君でした・・・
義経君は「九郎」といいながら、八男坊で相当好き勝手なことをやらせてもらってきたらしいです。その代わり知行が低かったり、負け戦があって人質になった時のオシオキはあまかったりと・・・
で・・・なんでも・・・源義朝さん(頼朝・義経兄弟の父上)のご親族に8番目の男児がお生まれになり(義経さんの従兄)、その方に「八郎君」とつけちゃったものですから、義経さんはイキオイ「九郎君」になったとか・・・
ややこしいですね・・・戦国武将って、ただでさえ似た名前が多いのに・・・
「背後から火をつけると、術が解けて、そのときの格好で亡くなる・・・」
反魂の術の返し手のカンニングペーパーを読む義経君でした。
そこで、追っ手の前に、仁王立ち風の弁慶を立たせて、自分は裏口からさっさと逃げました。
ご主人の居館の前をまさに死守しようとして、仁王立ち然としたまま息絶えてしまった弁慶を褒め称える、頼朝さん配下の御家来衆たちの声が聞こえてきます。
義経君は、それを無視して、途中風呂に入れてくれたご家族に「風呂」という苗字を与えたりしながら、本州の北端、竜飛岬までやってきました。
実は、彼、蝦夷地で、現地の人の協力を求めて再起を考えていたのです。
そのためには、(現在の平取町・びらとりの)平取神社か紫雲古津(シウンコツ)といったパワースポットまではぜひ行ってみたいと;考えるのでした。
まずは、竜飛岬からわずかな手勢の者と、磯舟より多少ましといった舟に乗りこんで、二昼夜風任せ・・・偏西風に乗って、対岸の「戸井(函館市の東側)の岬」につきました。
「おー、我が武運はまだ尽きていないようじゃ。」
とノーテンキなことを言いながら、しばらく、徒歩(かち)にて北上して参りますと、右手にまた陸地が見え隠れするようになりました。
「皆のもの今度はあそこにわたるまいぞ」
御家来衆は義経君の気まぐれにそろそろウンザリしてきていました。
「殿、陸奥から蝦夷に渡ってこられたのは、ただただ運が良かっただけ。」
今度ばかり・・・」
義経君も負けていません。御家来衆の御諫めを遮って、
「何の、静かな内湾ではではないか。たやすいものぞ。」
「殿。蝦夷地にわたる時も、屋島、壇ノ浦の勝ち戦の時も、風が我々に味方をしてくれたこと、よもやお忘れではありますまいな。こういう内湾には海を渡る風がありません。
ここは遠回りでも手堅く陸路をお選びください。是非お考え直しを・・・」
「いやぢゃ、余は対岸の<北海道の湘南>・・・ぢゃない・・・あのつきでたところまで(おそらく「絵鞆半島」)までいくんじゃ。いざとなれば。義経の八艘飛びで・・・」
「殿!後世の人間が作ったフィクションをこの場に持ち込むのはおやめくださいませ。
しかし、殿の強情さには負けました。殿も水かきをお手伝いくださる、という条件でどこからか舟をちょーたつしてきましょー。」
といって、結局対岸に、今度もマンマとわたってしまった義経君一行でした。
「これこれ、そこ行く方。この辺は何と申すところか?」
「モルエ・ラン(=ムロ・ラン)」
「だれかある?国土地理院の1/25000の地図をもて。」
「ですから殿。そのよーなものないのです。あとは、人づてに、ビラトリとかいう集落まで行くしかないのですよ。」
「しょーがないなー。
しかし、さきほどの木の沢山生えた集落(現・森町)からここモルエ・ランまで橋を作って、サトポロ・ぺツまで、おおーおおーきな隧道をくりぬけば、新幹線ルートとしては理想的じゃの・・・」
「殿、イー加減になさいませ。ショーがないのはあなたです。殿が、一番ましだったのは、五条の橋の上にいたときだけだと、わたし思ってますよ。」
「余計なこと言わず、次の目標はビラトリぢゃ。」
そしてこの人が、10年後、あのモンゴル平原を席巻するチンギス・ハーンになるわけないよね・・・