第二次世界大戦中、航空勢力のみで、戦闘中の戦艦を沈めた例は、
①日本海軍第22航空戦隊(96式、1式陸攻混成)がイギリス東洋艦隊、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、
巡洋戦艦レパルスをマレー沖海戦(1941.12.10)で。
②武蔵(大和型2番艦)がレイテ沖海戦(1944.10.24)で。
大和が終戦間際の沖縄特攻に出撃した坊ノ津沖海戦(1945.4.7)で。
この4艦のみです。真珠湾で沈められたアメリカ太平洋艦隊の戦艦は、当時停泊中でありましたので、「活動中・戦闘中」という決め事からは外れます。
①の場合、日本の陸攻隊の功績をたたえることが今までの通例でしたが、
戦史家諸先生のご意見は
A英国軍隊は日本の航空兵力を高く評価していなかった。英国の質・量とも80%程度、特に零式戦闘機、
陸攻部隊の航続力は、情報として入手していたのにもかかわらず、「あり得ない数字」として無視してい
たとか・・・
B空爆と雷撃で沈没するとは考えておらず、上部甲板や側舷部の装甲化を怠っていた。
Cイギリス東洋艦隊Z部隊の空母(インドミタブル)および母艦機の援護があればそれほど簡単に沈没は
しなかったはず。
以上から、特にマレー沖海戦、大和・武蔵が沈没した海戦でも、直掩機がいたら、装甲化甲板にしていたら、などなど、沈没は避けられた海戦があるといわれているようです。
そりゃ、可能性をほじくり返せば、そーなるにきまってますよ。
ぢゃ、長崎でも広島でもいいのですが、「新型爆弾」をつんだB-29の固有ナンバーが爆弾投下より事前にわかっていれば、大日本帝国の全航空勢力をあげて(当時でも約2000-3000機程度は新旧取り混ぜて稼働機はあったと思います)、日本上空に入る前に、戦略爆撃隊に襲いかかって、日本に原爆は落ちなかったかもしれません。
あるいは久我山の高射第一師団高射砲第一一二聯隊所属、15センチ高射砲(五式十五糎高射砲、二門)を可動式にして(モチロン当時の技術では無理です)、九十九里浜や御前崎辺りに配置して迎撃すれば、原爆投下は阻止できたといっていいでしょう。
ま、そんな夢物語はともかく、戦艦・巡洋戦艦が、航空戦力だけで沈められた釈明としては、
上の「A」は論外。
「C」は、あとから「空母という持ち駒をもっと始めからだしておけば?」といった話を出すのは、やはりズルイ!!
「B」は話としてはわかります。多分1934年第二次近代化の時が、甲板装甲化のチャンスだったのでしょうけれど、他に重要案件ができてしまって、入渠した意味がなくなったと思えます。
要するに、二次大戦を前にして、レパルスに回す金がなくなっちゃったのではないかと思います。
で、本来ですと、下記の実戦経験から「第3回近代化工事」を行いたかったに違いなかったと考えられますが、太平洋戦争開戦には間に合わなかった・・・。
以下にその根拠らしきものを書いてみます。
戦艦プリンス・オブ・ウェールズは新鋭でしたが、巡洋戦艦レパルスは、製造から30年たっていました。
英国海軍としては、レパルスの防御力が不安でした
と申しますのは、レパルスの一世代前の巡洋戦艦フッド(舷側203mm、甲板上面178mm一部128mm装甲厚)が、太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年.5.21、デンマーク海峡海戦で、ドイツ戦艦ビスマルクからの15cm砲弾(これは主砲ではありません)1発で舷側を射抜かれ沈没させられる、という英国海軍にとって震撼すべき事件が起きました。
フッドはさらにその前の世代の巡洋戦艦グループが、脆弱な防御力が災いして次々撃沈されてのをうけて建造された艦で、装甲にはある程度工夫が施されていましたが、これほど簡単に撃沈されるとは英国も考えていなかったようです。フッドは昭和6(1931)年の竣工以来近代化を受けていなかったのが災いしたのでしょう。
レパルスの略歴ですが、大正5(1916)年就役、大正8(1919)年第一次近代化<改装側舷152から229mm厚へ強化>、昭和9(1934)年第二次近代化改装<小火器の改装のみ>、ということは、上部甲板は竣工時の76mm厚のままで開戦を迎えざるを得ませんでした。
知ってか、知らぬか、マレー沖海戦でも、戦艦・巡洋戦艦とも、装甲化されていない上部甲板を狙われたのち射抜かれ、加えて雷撃で沈没に至っています。
ポンポン砲(対空40mm8連装砲)x4基もあまり好調ではなかったのも、不運な偶然でした。
時間経過からも、上のA、B、Cのうちでやむを得ず、あるいは同情票を入れるとすれば「B」しかないでしょうね。
でも、東洋艦隊に直掩機がつくかもしれない、という情報を、日本軍が入手すれば、日本側も「陸攻隊」に護衛をつけたと思います。特に零式戦闘機の開戦当初の、実戦配備定数に対する予備機数率は150%とビンボーニッポンにしては珍しくヒコーキが余っていましたから、いくらでも飛ばせたと思いますよ。
結局はイギリス空母+艦載機が出てきても、この勝負の結果は変わらなかったような気がします。
さて、レイテ沖と坊ノ津沖です。大和と武蔵は同型艦なので、サッサと沈没してしまった大和の状況から行きましょう。
攻撃開始から沈没まで、武蔵は約5時間、大和は約2時間だそうです。
坊ノ津沖海戦の日、のほうが天候良好で、雲量が少なく航空攻撃に有利であったと伝えられており、短時間の沈没につながったとされます。
両艦とも片舷に魚雷が被弾、浸水した際、反対側に海水を注水、バランスをとることで、船速は落ちますが、とりあえず傾斜しないで一定自力航行ができるようになっています。
とはいえ、これとて従来の日本軍用艦のダメージコントロールにくらべ優れていた程度であり、同時期に建造された欧米諸国のそれより大きくく劣っておりました。
また、ずんぐり型の船型の旋回性能は優れていましたが、転舵時間まで検討する余裕がなく、反応まで長時間かかるという欠点が解決されていませんでした。
武蔵のときは両舷に各個バラバラに魚雷を命中させていましたが、大和では、魚雷を片舷に集めて、反対側の注入装置の限界を超える浸水を招き、沈没までの時間短縮に成功しています。
しかし、そういう作戦をとったという証拠の文章が残っていないそうです。もちろん、無意識のうちに、「片舷だけ攻めてみようか?」といった以心伝心があったことは否定できませんが、やはり、始めにお示しした通り、沈没までの時間短縮につながった一番の原因は、その日、天候が良好で、軍用艦の急所を攻めやすかったことではないかと思われます。
なお、大和への有効弾と考えられているもので、史実上確実なものとしては、
<魚雷→左舷8本、右舷1本、命中弾(重量不明、恐らく500kg以上)→3発>が知られています。
さて、レイテ(詳しくはサマール沖海戦)の武蔵の場合、護衛として準備されていた、第4航空軍のほぼ全機の約200機、第一航空艦隊の250機のうち185機は開戦前に空襲または空戦で喪失。残りの65機も次第に数を減らしていきますが補充は来てくれません。
大和出撃時は前日、当日と特攻機が300機ほどでて駆逐艦2隻沈没など小艦艇に影響を与えるなど多少の活躍はしましたが、本隊を守る直掩機は午前中に宇垣纏中将が準備した第五航空艦隊の一部から8機の零戦部隊が午前中だけ着いたのみでした。
以上から、武蔵沈没のあたりまでは、もう少し航空勢力を温存できなかったかなー、と思いますし、坊ノ津沖では海軍、航空軍とも組織だった戦略的動きは、当時すでに日本の国力では無理でした。
諸家の御指摘の通りで、連合艦隊はフィリピン戦線で役目を終えたのです。
あるいは、台湾航空戦で大勝利を収めたという誤報が始めに入り、それをもとに捷号作戦を立案していますが、このころ(昭和19年)すでに質量とも、戦時物資は連合国のほうが上を行っていましたのに、そのような幼稚な情報に、踊らされた中枢部のノーテンキさにはあいた口がふさがりません。
大和は勝負所での使い道を誤ったうえに、沖縄県民への最後のプレゼントにさえなり損ねました。
どうせ、沖縄救済という考えがあるのなら、こんな、航空兵力が丸裸になる前に沖縄に移動して、名護湾か大浦湾で固定砲台として活躍が期待できたと思いますが?
よく戦史では「戦ってみるまで分からない」といった戦争史観があるようですが、よほどの僥倖に恵まれたときに限られるようです。義経の時代から、わかっているだけで、「奇襲」の成功例はわずか0.02%と言われています。ビンボーな日本では「少数精鋭主義」が優先され、それが間違った方向に導かれ、インパール作戦の如き無謀・無責任な作戦へと突っ込んでいきました。
まちがって今次大戦に勝っていなくてよかったと思います。これで、今頃日本が軍事政権下だと思うとぞっとします。