自由民権運動の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた「板垣退助さんは、明治14(1881)年自由党を結成、党首となりました。
ところが、自由民権運動と自由党の勢力拡大に全国を遊説している途中、明治15年、岐阜で遊説中暴漢に襲われ負傷。
出血しながらも、「吾死スルトモ、自由ハ死セン」あるいは「自由ハ死サズ、板垣モ死サズ」と言ったと伝えられ、これがのち「板垣死すとも、自由は死せず」と巷間に広まったとされています。
しかし、最後の一言も、板垣さんの秘書・内藤魯一さんが当日現場でとっさに叫んだともいわれ、確固たる情報はいまだありません。
この後、板垣さんは大正8年、82歳、岐阜での事件から37年間長生きして日本の政治・経済に貢献されました。
しかし、明治15年、いくら45歳で体力があったとしても、状況からは、全国演説でバテバテであったでありましょうし、当日もいろいろな妨害があって精神的疲労も大きかったのではなかったかと思われます。
それなのに、自分のCMめいたことが半分はいっていますが、時代背景と演説内容と恐らく一致しているような「キャッチコピー」がすぐ出 てくるなーという思いがいたします。
だから、一国を預かるような人物と、国会でも対等に議論応酬ができたのだなーと思われました。
「札」にもなるはずです・・・