「浮世絵師」君+印刷所チームと「版元(=スポンサー)」様 | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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残り少ない余生をテキトーにいきていくブログ
◇監修 左上野 老鶴 ◇GM 経田野 横鋤 ◇照明 当代元 蔵志
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 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。

歌川広重の東海道五十三次、葛飾北斎の富嶽三十六景、浮世絵の中でも、「遠近法を取り入れた風景画」として大変有名ですねー。


でも、広重さんも、北斎さんも、原画の線画と、画面の色を指示するだけだったそうで、あとは「彫り師」さん、彩色師さん、すり絵師さんの分業作業だったといわれています。


もちろん、それまでは、何千、何万回と細かい打ち合わせが行なわれたことでしょう。

そして、プランが一旦決まると後はスピード勝負、特に、役者絵は興行が真っ盛りになる前に、刷り終わってなければなりませんので、作業は徹夜の連続・・・ということもあったようです。



やれやれ、やっとできたー!!#やったー☆といったところで、版元様のご登場であります。

版元様の多くは、芝居小屋の席亭だったり、沿道の大店(おおだな)のご主人様で、絵師さん達へのご褒美といいますか、労賃を払いにくるわけです(たいていご本人は来ないらしいのですが・・・)。


皆さん、ご存知のように、江戸は階級社会でしたから、労働者と、版元様の隔たりは天地ほどの差がありました。

そして、一応、当時、「浮世絵」というのは、最大の大量生産製品でしたから、一山ナンボ、であったでしょう。

要するに、絵師さんも、彫り師のチームの面々も安月給で働いていたので、版元様からのお駄賃は命より大切なものだったかもしれません。


しかし、せっかく、出来上がった作品でも、「天下の版元様」から<ダメダシ>が出ますと、悔しいけれど全部やり直しとしなければなりませんでした。

断れば、この時代、スポンサー様はどこかに行ってしまうのです。


たとえば五十三次5番目の宿「戸塚」。真ん中の今にも馬に乗ろうとしている旅のお兄さん、はじめは、下馬する図案でしたが(多分法律に触れると思いますので絵は出せません。恐縮ですが図柄は皆様でご確認ください)、「版元様であります、後方に看板が見えています<こ(「こ」は万葉仮名の「古」)めや>から「米の値段が下がる暗示のようでイヤだから、乗馬直前の格好に直してくれとのお達し・・・


印刷所、絵師さん、この「ごり押し」に勝てる人は、もちろんいません。


今も似たようなものでしょうか・・・どこかでコンナやりとりが・・・