「ステンカラージン」東海林太郎 | 手風琴次郎のブログ

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「流れ行く歌」、、色々

ロシア民謡と呼ばれる音楽は、明治の中期頃から日本でもそれなりに紹介され歌われてきたらしい。

戦後シベリア抑留者たちが持ち帰り、後の「うたごえ運動」などでも日本中に広まった曲も多い。

昭和14年に東海林太郎さんが「ステンカラージン」を吹き込んでいたのを最近知った。

↑この「ステンカラージン」、簡略化された一般的な歌詞とは違いかなり過激な文言だ。

支配層に立ち向かうコサックの英雄が、ペルシャの姫を拉致し強引に婚礼(散々弄んで)、最後は海に投げ捨てるという内容。

(参考)ステンカラージンの歌詞について

同じくロシア民謡「紅いサラファン」もレコーディングしている、

早稲田大学卒業後進んだ研究科でマルクス経済学を学び、後の満州鉄道調査部時代に書いた『満洲に於ける産業組合』という論文がもとで左遷された経験を持つ彼自身のリクエストだったのか?

支配層=米英、コサックの英雄=日本、ペルシャの姫=米英と繋がる中国、東南アジア??、、。

東洋平和を掲げ大陸に進出し、力で支配しようとする小国日本の行く末を、せめても案じていたのかも知れない。

サラファンを縫う母が娘に言い聞かせるような気持ちか。

(参考「赤いサラファン」ダークダックス

 

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以下、東海林太郎さんのこと、あくまで自分の確認用のまとめ。

小学生の頃、テレビで見たときは「タキシードのお爺さんが一所懸命歌ってる」という印象でしかなく、後に懐メロに興味を持つようになってから買って聴いたステレオ録音盤も同様であった。

 

↓しかし、ある日ラジオでポリドール原盤再録盤(上写真)の音が流れてきたときの衝撃は大きかった。

「こんなに凄い歌手だったのか」とファンになってしまい、それ以降は他の歌手でもSP原盤復刻のレコードを探して聴くようになった。

彼の人生は多くの本やサイトで知ることができる。

書籍

[一唱民楽]東海林太郎、岩間 芳樹 (絶版、未読)

「不滅のアリア」宮越卿平

「国境の町 東海林太郎とその時代」菊池清磨

「従軍歌謡慰問団」馬場マコト

サイト

東海林太郎 不滅のアリア 歌謡芸術を偲ぶ」ファンの方による総合サイト

経済学者を目指した東海林太郎はなぜ流行歌手になったのか」(ダイヤモンドオンライン)

夢を諦めない ~ 歌手 東海林太郎」※音声朗読で聴ける。

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東海林太郎 

明治31年秋田市に生まれる。

幼少期より歌が大好きだったが、正式に音楽を勉強してはいない。

父は秋田県庁土木課の設計技師であったが、その一本気な性格から上部を衝突し辞職、当時の新天地であった満州に移住し建設工事に携わる。祖母の願いで、太郎は長男として家に残る。

 

名門秋田中学へ入学、常にトップの秀才、器械体操などスポーツも得意とし、射撃大会でも優勝。

友人から借りたヴァイオリンを独習、音楽大学への入学をも考えていた。

一年浪人、勉強もままならない程の葛藤、父親の猛反対もあり音大進学を断念、大正6年早稲田大学商科入学、同郷の庄司久子(東京音楽学校=芸大、入学)と学生結婚。

大正11年、早大本科を卒業し研究科へ進み、経済学を佐野学に師事する。

佐野の「日本社会史序論」の刊行にも助手として尽力する。

太郎自身は佐野の共産党には関わっていない、佐野があえて危険な活動には引き入れなかったか。

 

大正12年、満鉄調査部(大連)へ入社。

声楽勉強のためドイツ留学を希望していた妻の久子のため、自身も音楽を勉強したいがために、早めに満鉄パリ支社転勤を願い出ることも考えていた。

大正13年、論文書『満洲に於ける産業組合』を発表、関係各所に配布される。

その頃には、東京音楽学校で久子と同窓生であった渡辺静が東海林家に出入りするようになり、太郎に歌うことを勧めレッスンを始める。

大正14年、声楽家としてドイツ留学を考えていた妻の久子は大陸を離れ帰国、以降は渡辺静が太郎の歌の支えとなる。

 

昭和2年、論文が問題視されていた事に因り、鉄嶺図書館長に左遷、単身赴任。

彼の論文は日本の公益を否定するものでもなく、中小生産者や無産者を擁護するものであって、決して左翼的煽動を以て記した内容ではいが、「無産者は、何等かの方法によって、自家の地位を確保し、進んで世の資本家と対抗せざるべからず(=しなければならない)運命に到達する」という個所が引っかかった。

 

報われない悶々とした日々が続き、酒に溺れ、クラシック音楽を聴きまくり、レコードコンサートを催したりした。

昭和3年、張作霖爆殺事件に関して、「卑怯である」と関東軍旅団長を宴席で投げ飛ばした。(酒の席ということで穏便な処分で済む)

昭和5年、満鉄を退社し帰国、弟の中華料理店経営維持のため満鉄の退職金をも使い果たす。

流行歌録音のバックコーラス(といっても合いの手の掛け声)などアルバイトをしながら、声楽コンクールに出場しクラシック歌手を目指すも、レコード会社の要請はあくまで流行歌手、ニットーレコード、キングレコード、コロムビア、ポリドールなどで流行歌を吹き込む。

 

※クリックで動画が開きます。

↓ニットーレコード

花の木陰」※昭和8年5月、発売月としてはこれがデビュー盤になるようだ。

愛し紅ばら」「踊る銀嶺」「招く山々

この昭和8年前半頃は母音の発音が甘いが、翌年頃には改善されている。

→「流浪の唄

※こうした母音発音の改善は初期の藤山一郎にもみられた。

二人とも非常に研究熱心だったことが伺える。

 

↓キングレコードではしみじみとした曲が多い。

山は夕焼け」「綾乃の子守歌」「母をたづねて」「山の入陽」「城ヶ島夜曲

服部良一の当時としては完成度の高いジャズ曲の「仰ぐ大空」では真面目な歌唱とのミスマッチが面白い。

流浪の旅」→後の鶴田浩二バージョンでは四拍子に、その後リニューアルして冠二郎の「旅の終わりに」として大ヒット。

,

↓コロムビア 荘司史郎

戀の島」、「春の哀歌」(古関裕而作曲)

 

↓グラモフォン 富橋文雄

酒に忘れて

(これらの貴重な音源をYouTubeにUPして下さる方々に感謝)

 

昭和8年に早稲田大学でのマルクス経済学の師であった佐野学が獄中転向声明を発表。

同年の暮れ、満州時代に面識のあったポリドール文芸部の藤田まさとが同社の股旅物企画「赤城の子守歌」の歌手に東海林太郎を採用。

太郎は「国定忠治とは歌うほど価値のある男なのですか?」と作詞者の佐藤惣之助に尋ね、佐藤はその真剣さに対し「農民の歌」であることを力説して納得を得た。そして翌年発売されたその「赤城の子守歌」は空前の大ヒット。

以降、歌謡史に残る多くの名曲を歌うことになる。

↓以下ポリドール時代。

旅笠道中」「名月赤城山」「忠治子守歌

むらさき小唄」「お駒戀姿」「お夏清十郎

野崎小唄」「すみだ川」「高瀬舟」「築地明石町」「博多小女郎波枕

国境の町」「麦と兵隊」「陣中髭くらべ」「上海の街角で「雨の夜船」「ハルピン旅愁

湖底の故郷」←ダム建設で、土地を追われた奥多摩小河内村の人々の心情の歌。

街の宝石」←彼には珍しい?軽快な青春ソング

椰子の実」「谷間のともしび」「ステンカラージン

↓戦意高揚企画物も、

愛国行進曲」「愛馬進軍歌」「軍艦行進曲」「日本陸軍」「紀元二千六百年

「関東軍軍歌」(心なしか力が入っていないように聴こえる。)

 

昭和16年テイチクレコードへ移籍。テイチクでは古賀政男、藤山一郎が抜けた穴を彼に託した。

ちなみにそのテイチク時代の曲を収録したLPレコードも昔買ったが、

琵琶湖哀歌」のような美しい曲、

名曲「すみだ川」をモチーフとしたような「軍国舞扇」など佳曲もあったものの、やはり軍歌風の曲が大半で、発音、節回しともにやけに勇ましい感じの歌い方が多くなった。もはや祖国と歌で心中する覚悟を決めたような感じがする。優秀な経済学者でもあった彼ならば、祖国の行く末は見えていただろうに。

ああ草枕幾度ぞ」※メロディ旋法が面白い。作曲は陸奥明(菅原都々子の実父)。

戦友の遺骨を抱いて」※大東亜(ポリドール)の石井亀次郎歌唱盤ともにヒットした。

昭南島初だより」※大戦序盤の戦勝気分か、やけに明るい曲調。

マライの虎」 同名映画主題歌。

※戦後のTVドラマ「快傑ハリマオ」では主題歌の一部がほぼそのまま使われている。

還らぬ白衣」※間奏に婦人従軍歌の旋律、女性コーラス入りでどこか優しい歌唱だ。

黒田節」←多分この時代の録音、歌詞が軍国風に書き換えられている。

※戦後しばらくしてから元の歌詞の同曲(マーキュリー盤?)を録音している。

 

戦後は、GHQが放送禁止とした股旅ものや軍国ものの持ち歌がが多かった為に不遇の時代が続くも、高度成長期以降に巻き起こった懐メロブームでTV番組出演など脚光を浴びることになる。

 

学問や音楽に情熱を燃やした青春時代からトップ歌手になるまでが最初のクライマックスか、、、。

久子との結婚も、満鉄入社も、彼の中に燻る音楽への思いと残された可能性の模索があったのだろうか?

満鉄では自身が学んだ経済学を生かそうという理想を持っていたものの、打ち破れて帰国、そして師である佐野学の転向声明、

そしてすべてを振り切るように音楽の道に進んだが、望んだクラシックではなく、ヤクザ物などをも歌う流行歌手に。

しかし、戦意高揚音楽を歌いまくっていた大戦中にあっても、日本という国とその民衆に対する彼の内なる念いは変ってはいなかっただろうと思いたい。

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(余談)

東海林太郎は真直ぐで豪快な人物だが只の堅物ではない、ディックミネと車中で12時間酒を飲み続け、あのミネさんが驚くような色話などもしていたたらしい、、、。

そりゃあ、モテたでしょう、、、。(笑)