読谷村での「義烈空挺隊玉砕之地」での献花式を終え
参列者一同は、各々摩文仁の丘をに移動しました
摩文仁の丘の義烈空挺隊慰霊塔に到着し
慰霊祭前に歓談する沖縄支部長と空挺団長
全員無事に摩文仁の丘に到着し、11時から慰霊祭を開催しました
11時になり全員慰霊碑に向かい正対
国家斉唱を行う
国家斉唱は音楽を流し、心の中で「君が代」を斉唱する
沖縄支部長による祭文奏上
沖縄支部長による祭文奏上
祭文を奏上する沖縄支部長
祭文
本日ここに、令和四年度、義烈空挺隊慰霊祭を挙行するにあたり、全日本空挺同志会、沖縄支部を代表して、謹んで追悼の言葉を申し上げます。
昭和二十年四月、米軍は四個師団をもって読谷村に上陸し、沖縄戦が開始しました。沖縄を防衛する 第三十二軍は、制空、制海権を奪われ、本土からの援軍のないまま、火力と物量に勝る米軍の攻撃に、圧倒されつつありました。
五月下旬、首里の司令部も保持が困難に陥った沖縄戦の終盤、戦局を挽回すべく、起死回生の特攻作戦、義号作戦が発令されました。
奥山大尉率いる義烈空挺隊と諏訪部大尉の第三独立飛行隊が、米軍の占領する読谷、嘉手納飛行場に突入し、胴体着陸した機体から飛び出した隊員は、駐機中の航空機、管制塔、集積所に次々に襲いかかり、徹底的に破壊して、飛行場を大混乱に陥れました。読谷飛行場は一時的に制圧され、飛行場としての機能は完全に麻痺しました。
米軍の資料では、「弾雨を犯し、超低空で侵入する日本軍機に対して、高射部隊は、手あたり次第に危険な水平射撃を行い、警備の海兵隊員は、見境なく銃を撃ちはじめ、多くの者が同士討ちにより、負傷あるいは死亡した」と記録されています。
義烈空挺隊の突入により、不意を突かれた飛行場の大混乱と恐怖に慄く米軍兵士の様子が伺えます。
当時、義烈空挺隊の戦闘に遭遇した海兵隊航空将校ロナルド・サーモン大佐は、「実に恐ろしかった。私が経験した戦闘の中で最も恐怖した体験だった。」と語っています。実際には、読谷飛行場に強行着陸できたのは、たった一機で、飛行場を混乱に貶めたのは僅か十名足らずの空挺隊員でした。
少人数で、大戦果が挙げられたのは、隊長である奥山大尉の卓越した統率と、徹底した猛訓練と周到な準備、空挺隊員としての矜恃と落下傘の絆、一人一人の任務達成への強固な意志、そして、挺進不難の精神によるものと考えます。
今日、帝国陸軍挺進部隊は消滅しましたが、日本と日本国民を守るという気概と意志は、精鋭無比の第一空挺団に引き継がれ、挺進赴難の精神は、今、空挺精神として、この「義烈」の碑の前に参列する第一空挺団隊員、沖縄支部会員、空挺予備員一人一人に、確りと、受け継がれております。
今年の二月二十四日、突如として、ロシアはウクライナに侵攻しました。二十一世紀になって、軍事大国が、小国を飲みこむような、旧態依然の戦争が起こるとは 誰も考えてもいませんでした。戦争は、常に、市井の人々が犠牲になっていきます。多くの若い軍人が亡くなっていきます。若人の未来と命を犠牲にしても、この戦争を遂行しなければならない大義が、ロシアにあるとは思えません。
そして日本はそのようなロシアに隣接していることを忘れてはなりません。日本を取り巻く環境は、戦争の世紀と言われた二十世紀当時と 全く変わってはいないのです。
大東亜戦争が終結して、七十七年の歳月が過ぎ去りました。戦争を経験した方々は殆どが鬼籍となり、戦争を実体験され、その凄惨さを真に知る方はおられなくなりました。戦争を経験していない我々は、新たな戦争の時代に入ったことを自覚し、どんな状況になっても 対処できるように備えていかなければなりません。
沖縄支部は、昭和四十八年に、当時の第一混成団の空挺予備員有志によって、読谷の地に「義烈空挺隊玉砕之地」の慰霊碑を建立し、慰霊・顕彰を目的として、支部を立ち上げました。そして、発足以来、四十九年間、代々、慰霊と顕彰を行なってまいりました。今後も、先輩方々の、義烈空挺隊への深い思いを受けつぎ、沖縄支部の「義烈空挺隊玉砕之地」の碑と、ここ摩文仁の丘の慰霊塔を守り、義烈空挺隊の末裔として、今後も慰霊・顕彰を続け行くことをお誓い申し上げます。義烈空挺隊の御霊よ、安らかにお眠りください。
最後になりましたが、コロナ禍により規模を縮小しましたが、第一空挺団長若松純也閣下をお迎えして、令和四年度の慰霊祭を挙行できましたことを心から御礼申し上げ、追悼の言葉といたします。
令和四年六月四日
全日本空挺同志会 沖縄支部 代表
桃原浩太郎