たくさんの方の応援していただき、ひと月前に、川村花菱『うす雪』という世界におりました。
しかし最後までこれ、難しかったというかわからなかったというか、才能が足りないのは分かってますけど、勉強も修行もまだまだまだまだ、という感じでした。
私、向坂長之助という名前だったのですけれど、この人がなかなか分からなくて、そこには新派の様式というものも無形のプレッシャーとなって、僕を自由にさせてくれなかったって感じです。
第一印象で、「これはなんとかなる」と思ったのに罰があたったのか、油断したわけではないのですけれども、敗戦って感じでした。
ヘタクソなりの自己満足で、前回『ドモ又の死』の澤本は、一見僕とは対照的なキャラクターながらも、人物を把握できて、そこの生きることができました。
その前の『囲まれた女』の矢田栄吉という設定も、短いシーンからでも彼の人物を引き寄せることができました。
なので、何が起こっても(3.11大地震ってのも起っちゃいましたけど)そこで対処できる自由さが、自分の中で担保されていたのですけれども、今回は『出番と出番の間』が埋められなかった口惜しさが残ります。
唯一救いだったのは、佐藤光一さんの『大将』との主従関係、これは自然でした。
長年仕えた番頭としての距離、この関係は落ちついていました。佐藤大先輩のおかげです。
初演というこの作品、戯曲も博物館か川和先生の書庫にしかないような稀少なものですけれども、是非他の方の上演も拝見したいものだと思いました。
そうじゃないと、向坂という男に恨まれそうで・・・。
尚、この上演DVDは早稲田大学の演劇博物館に貯蔵されるので、下手すりゃこれが唯一の例として後世に残ってしまいます。
あの世で川村花菱さんにも責められないか、心配です。
ちょっと喜んでもらえるかも、なんて思ってもいるのですが・・・。
地元のイベントで、『往還』という詩のリーディングに参加させてもらうことになり、早朝から一度みんなで詠みました。
初稽古、って感じですけど、われながら固い固い下手下手。
大きな会場、オリザさんも来られるそうで、もちょっと修行します。
今年、津波で多くの犠牲者が出てしまいました。
この詩は、チリ大地震のときの津波による被害に当たって、綴られたものです。
最近、忘れてしまう事が、早くなっています。
直ぐに忘れてしまうから、繰り返してしまいます。
それじゃ、反省も教訓もいかされないわけで・・・。
次から次へと新しいものを上書きすることで、サイクルは早くなり世間は活性化します。
その反面、折角できたものも、簡単の消費されて、賞味期限が短くなってしまいます。
そのための近代化や情報化やテクノロジーはいらないと思うのです。
ましてや、エンターテイメントがそんな役割をしてしまわないように。
夜、 大都会のど真ん中で、とってもアナログな時間に立ち会いました。
お客さんの幸せそうな顔を横から拝見して、なんとなく今の世間のスピード化に、実はみなさん疲れているのではないかと、そんなことを思ったりしました。
礼儀正しさと他人行儀との微妙な関係。
何かしてあげて、お礼を言われないと不愉快だけれども、過剰にお礼されることで距離を感じてしまうこともまた事実。
連絡を頂けない事で不愉快なことと、
わざわざ連絡を頂いたことで寂しKかんじることと、
人間複雑です。
「親しき仲にも礼儀あり」だけど、「礼が要らないほどの親しき仲」ってのもあるんじゃないかなあと。
コミュニケーション教育の世界じゃ通用しないか・・・
静岡の強行軍、ずっと言ってみたかった下田に立ち寄れました。
川村花菱にかかわってから、唐人お吉の話を知ろうとして、そのカウンターパートナーの大工・鶴松に興味を覚えました。
鶴松の少ない資料を補完すべく、下田のお吉記念館とかにも寄ってみました。
玉三郎のお吉、江守徹さんの鶴松、といった上演資料はあったのですけれども、なかなか鶴松さんの資料、特に姿形には恵まれません。
ところが、そのお吉さんのお墓のあるお寺の隣の隣に、鶴松さんのお墓がありました。
小さいながら、ちゃんとお墓が守られていました。
鶴松さんのエピソードも、立て看板になって紹介されていました。
ここでは、「悲運の鶴松」でした。
史実にある程度もとづいているのでしょうけれども、伝えられている人柄や生き方の評価はそれぞれ・・・。
僕の死後も、万一にでもだれかが評価してくれることになったら、肯定・否定いろんな見方をされるのでしょう。
そう考えたら、伝記になるような人でも、あんなに単純な人生ではないはず。
いいところも悪いところも、いいときも悪い時も、好きな人も嫌いな人もあるはず。
ポーランドシリーズの2作目、『女なたちの合唱』というのを慌てて拝見しました。
お誘いいただいたWSは、都合がつかずに参加できなくて残念。
そそしてこの作風は、結構楽しくて面白くて興味深かったです。
演出家は、若くてかわいいマルタさんというポーランド女性ですが、彼女が指揮者として実際に登場します。
それも演出なのかとおもいましたが、実際に指揮をしているのです。
なので、演劇の変形というより、オペラを変形させたパフォーマンス・スタイルなのだろうと思いました。
女25人の声x声、かなりシンプルで新鮮な表現でした。
観ていて思ったのは、この手法で、難攻不落なベケットの ”Not I” が、そのままやれるのではないか、ってことです。
それだけ、美しく激しく動くポーランド語の口が、印象的でした。
終演後に伺ったら、このスタイルで他の作品も作っているそうで、二作目が今ポーランドで上演中とのこと。
どんなのをやっているのでしょう、興味深いところでした。
それにしても、よくこんな25人もの演者を来日させたなあ、と思います。
飛行機会社が万歳してそうです。
シアターχで、先月出演させていただいた名作劇場の『批評通信』を頂きました。
様々な年齢性別職業の、5人の方々から批評を頂いています。
なんとも冷や汗ものですけれども、とても有難いことです。
しかも、みなさんそれぞれのお立場で、興味深い意見を頂戴しています。
二度ご観劇頂いた芥川賞作家の西村賢太さんのご批評もありました。
批評は”クリティック”という英語からのもので、近代に増えた日本語です。
語源をたどると、「上から目線」で価値判断を下すことが批評になるわけで、身分の高いもの、識者がまだ未熟なものに対して指導するような、先生的なものなのだと記憶しています。
つまり、庶民がプロを「批評する」というのは誤用ということで、批評者がそれなりの専門的な見地から、実践者を指導するためのものが「批評」なのだと思います。
ま、僕の場合は名指しで非難されなかっただけでも恐縮なんですけれども、とにかく安直な賛辞よりもしっかりした批評はとても大事なことだと思います。
よい批評は人材を育てるわけです。
僕も今、批評を書いていますが、相手の顔を思い浮かべずに、正直に意見をぶつけたいと思います。
もちろん、褒めて自信をもってもらうことも大事だし、そのほうが人間関係もマイナスなことは何もないわけですけど。
「口の悪い人が褒めた」ときのほうが、信憑性が高いわけで・・・。
近江敏郎さんがやっていた歌の審査員じみたに、必ずなんでも褒めるのでは、とりあえずは気持ちいとしても、真剣にやってきたものほど、後でちょっと虚しくなってしまいますからね~。
ついでにこの際率直にいうと、今年観たものの中では、本当に演出の未熟を感じるもの、戯曲の主題が不明なもの、制作のコンセプトがあやしいもの、かなり酷いパフォーマンスがありました。
だれかが批評しないと、そのまま放置されては本人が可愛そう。
特に若い人の場合は、安易な賛辞は道を間違えてしまいますから。
でも、僕への批評は、すぐ凹むの控えめにお願いします。
そんなに若くないんで・・・。
議論しない文化だ出れども




