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続・日々コラム・・・

Shen Teh n Shui Ta = hen na TeTSuShi・・・

なかなか、年齢とともに気を使われるようになって、叱ってくれる人も少なくなってしまいます。


仕事柄、怒鳴られたり叱られたり、文句言い合ったり、そしてこっちも反論したり、ま全部お酒で流れる範囲で済ませていますけれども、それでもちゃんと面と向かって指摘されることは少なくなってきます。


そんななか、気の置けない友ありて、いろいろと苦言を呈してくれるのは有難いのです。


率直な意見を言ってくれるのは、本当に有難いことなのです。


有難いのですが・・・・


鬱陶しい。


これも率直なところ。


つまり、僕が意見を言ってあげる立場だったとしても、

「率直な意見を言ってくれる有難い友人」と思われるか、「鬱陶しい面倒くさい奴」と思われるか、


それは、ぼくのふだんの人格次第。


正論を伝えるためにも、自分が歪んでない事が大事なのだと思いました。


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ポーランドのワークショップ終わりの楽屋

滞在先の喫茶店にマンガ『ドカベン』がおいてありました。

懐かしいので、さらりと読み返していました。


今年のプロ野球は、作者の水嶋新司さんが応援するホークスが優勝したみたいなのですけれども、はじめてプロ野球のペナントレースの『優勝』が、僕の知らないところで決っていました。


野球ばなれしたのは、自分なのか、メディアなのか、とにかく今y国民的スポーツではなくなっていることは間違いないかもしれません。

日本の野球界がそれをうけいれるかどうか・・・。


やはり、伝統に安住していて、まだまだ工夫が足りていないと思います。


さておき、『ドカベン』に出てくる個性的な岩鬼は、水嶋新司さんの思いれが相当強いキャラクターで、途中なんども主役を食ってしまっています。


彼は、三塁手です。

水嶋新司さんが描かれる他の野球マンガもそうでが、傾向としてサードは豪快なキャラクターが多いのです。


そういえば最近、そういう花型のサードを現実にはあまり見ません。

多くの場合、ショートから老いてコンバートというパターンが多いです。

または、サードから外野やファーストにコンバートされるとか。


専業サード、生涯サードというと、長嶋さんの時代、それから掛布くらいでおしまいじゃないかと思います。

サードは、ホットコーナー。花型のポジションだったんですけどね。


また、豪打の岩鬼を一番打者として起用したのも水嶋新司さんです。

それまでは、俊足と選球眼、が条件だったのですけれども、新しいタイプの1番打者が、マンガから生まれました。


今の阪神の監督の真弓さんの現役の時なんかは、長打力もあってまさにこんな感じの一番打者でした。

マンガのアイデアが現実になったような、1985年の阪神打線でした。


マンガの話ですけれども、そういう周囲の文化が、プロ野球界の人気を支えていました。

血圧が上がりそうになることがあります。

法律的に、手続き的に、理屈的に、間違っていなければ、それでいいのかという憤り。

コンセプトは法律や文書にならないから、時がたてば揺らいでしまいます。

事業やプロジェクトや、町や建物や、文化は永久に続きます。

公共依存が何故まずいかというと、情熱やコンセプトにたいする想いが、役人がからむと長続きしないから、最初はどんなに優れたプランも、時が経つと色んな意見や思惑が混ざって来て、ぐちゃぐちゃになるのです。

手続きが間違っていなければ、それでよし、となるのです。

責任も手柄も『前任者』だから、民間や個人の看板で動く民間とはロマンの度合いが違うのです。

建物をみても、例えば、住宅都市整備公団のマンションと、同時期に作った民間のマンションと、どっちがお洒落かということみても、公共にはミスのない安心感があるにしても、こだわったコンセプトがありません。

『文部省推薦』というのは、つまらない映画のシンボルスタンプだったじゃないですか。

だからこそ、昨今の風潮、芸術の助成には警鐘を慣らしたいと思うのですが・・・。


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どんなに大変な準備と、疲れとがあっても、納得できなくても、僕らを『待っていてくれた』、『楽しみにしてもらっていた』という替えがたい喜びがります。


それを共有できるカンパニーの仲間がいます。


週末の早起き。


善意なんかじゃなくて、自分の修行のためのこの数週間。


小さな出会いと発見に感謝。

無謀な身体訓練に挑むあたり、自覚のなさはますますエスカレートしているのですけれども・・・。


まだまだ挑戦的な生き方ををしたいと思っていても、周囲を見渡すとやはり自分のポジションはいつまでも他人様に甘えて、流れに任せているばかりではいけない感じ難だと思います。


なにも、若づくりをしているつもりも、精神年齢が低いつもりも、社会に対して無責任なつもりもないのですけれども、ジェンダーでいうところの「男らしさ」「女らしさ」という意味で、年齢の定義がどうも受け入れがたい今日この頃。


アラフォーは笑って流せるのですけど、シャレならいいのですけど、気分は34歳。

ノストラダムスの予言を信じていたいので、34歳以降の人生は想定していなかったんです。


それはただ幼稚なだけではないかというと、そうでもないという反論。


僕は20代は40歳代だとおもって暮らしていましたから・・。


40のオッサンだと思って仕事をし、40のオッサンにふさわしい酒を飲み、遊び、ストレスを抱えていました。


いま、ちょっとバランスとり。

他人様から多くを学び、平成生まれの若い人とも接して、「さくら水産」で嘘っぽい酒を楽しみ、それでもそれなりにストレスを抱えて、まあ、人生いろいろ。


身体のついていく限り、気持ちはいろんなところに置けばよいと思うのですけれども、さすがに身体的な限界が見えてきた気もします。


どこかで、この集大成をまとめてあげたい気がしています。


毎日、怖いものだらけです。



ポーランドのダンスシアターが来日していて、演出家・クロード・シルサルチックさんのワークショップがありました。


場違いですけど、旅の恥はかき捨て。(旅してきたのは相手だが)、参加してきました。


ムーブメント苦手なので、そもそも年齢的にも限界があるのですけれども、スポ根な4時間。


中学生時代の部活のシゴキ以来の体力消耗でした。


ただし、ワークショップとしてとても優れたプログラムと進行で、とても洗練されていました。


出来上がった試行作品、ダンサーではない僕の身体も参加した、世界唯一のものでした(たぶん)


おそらく、今週はもう、身体動かないと思います・・・。




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懐かしい空気を吸って、何の変哲もない景色を眺めて、気恥ずかしい臭いを思い出して、ほんの少しリフレッシュ。


もしかすると、臨終のときに思い出すかも知れない情景でした。


青春時代が夢なんて、あとからほのぼの思うもの。

万事、あとから気がつくものなのでしょうかね~。


毎日が目の前のことでいっぱいいっぱいだから。


アーティストの芸術性の低下についてお話をさせていただきました。


お医者様や弁護士や教員と違って、資格試験があるわけでもないのがアーティストです。

これを俳優に限定して考えてみた場合、その気になれさえすれば、質は問わずとも「俳優になる」のは簡単です。

でも、「俳優でありつづける」のは大変なんです。

俳優になるにはお金がかかります。

それは、資格試験のあるような職業と違って、養成課程で必要なのではなくて、生涯俳優でいつづけることにお金がかかります。

なぜなら、どんなに有名になっても、一部を除けば安定した収入や生活基盤が見込めないからで、それを補うべくお金がかかります。時間も労力も費やさなければなりません。

逆説的に言うと、お金があって、時間も労力にも余裕がある人なら、俳優で居続けていてしまいます。

すると、才能ある人が挫折して断念し、才能なくても余裕ある人が残ってしまいます。

結果出来上がる芸術の水準がどうなるか、想像はたやすいことです。

もし芸術の公的な助成を求めるのであれば、その部分の問題解決なのではないかと思います。

必要な人の保護と、不必要な人への引導。


才能ある人が諦めないように。

才能ない人が居座らないように。


僕は引導を渡される方かな・・。



俳優座劇場で、日中コラボの京劇の公演を拝見。

この舞台上が、なにもない素舞台の状態になっているのはとても珍しい気がします。
恵まれた施設でもあり、そもそもここで上演するくらいの公演なら、予算も少ないくないので、概ね立派なセットが組まれていたりするものです。

しかし京劇は、そもそも素舞台でやるものですから、なにかとても新鮮な感じでした。

公演は、出演されていた坂田純子さんに恐れ多くもご招待いただき、とても興味深く劇場に乗り込みました。
事前の坂田さんと京劇、という以外さも、上演をみると唸るばかり、さすがさすがの芸域の広さとでもいうのでしょうか、お見事でした。

日本で京劇を見るのは初めてで、もちろん専門的な眼力も持ち合わせていませんが、本場中国の京劇俳優さんとの共演、中国語字幕と日本語の混在、単なる招へい公演では味わえないものがあったのではないかと思います。

京劇は、日本でいう歌舞伎的な位置づけかと思いますが、歌舞伎ほど様式的ではなく、立ち回りも派手で現実的なかんじです。

ところで、中国の伝説的京劇俳優、梅蘭芳(←「めいらんふぁん」と入力したら一発変換されました)は、「ばいらんほう」と呼ばないのに、京劇を迫害した江青女史は「こうせい」と、日本では言うのです。

いつも思うのですが、中国の字との名前が、外国で話すときに一番困ります。

「こきんとう」というのは日本語ですから、世界的なキーパーソンですら、その人を特定する別の名前を御知らなければならないのです。

チャン・ツィーイーとかならそれでいけるのですけど、相互主義の弊害かもしれません。

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僕は現代アートが好きです。

作家と同世代を体験しているから、自分の未来の示唆にもなるとおもうのです。

なので、『エセ前衛』が大嫌い。

最近、何も新しくないエセ前衛が多すぎるきがします。どの分野も。

ただ雰囲気だけで変な事しているだけの、空っぽなものを、前衛とか名乗らないで欲しいです。

昔の前衛を真似ても、前衛とはいわんのだよ。