『代表的日本人』二の「上杉鷹山」をまとめ、所感を述べる。
上杉鷹山は十七歳の時、米沢藩の世継ぎとなった。彼が藩主となり、二年後初めて自領の米沢に足を踏み入れ、その惨状に衝撃を受けた。そして家来を集めてそこから得た貴重な教訓を説明した。
「この目で、わが民の悲惨を目撃して絶望におそわれていたとき、目の前の小さな炭火が、今にも消えようとしているのに気づいた。大事にしてそれを取り上げ、そっと辛抱強く息を吹きかけると、実に嬉しいことには、よみがえらすことに成功した。”同じ方法で、わが治める土地と民とをよみがえらせるのは不可能だろうか”そう思うと希望が湧き上がってきたのである」
鷹山がまず最初に解決を迫られたのが財政の問題であった。彼は自身の生活を極限まで切りつめ、民の秩序と信頼を回復するよう倹約生活を16年間も続け、どうにか重い債務から脱することに成功した。
善政は適材適所なくして布くことはできない。第一の役として「郷村頭取」と「群奉行」を設置した。彼らは「民の父母」として小藩の行政一般を担う総監督であった。鷹山は彼らに一つの指示をした。
「赤ん坊は自分の知識を持ち合わせていない。しかし母親は子の要求をくみとって世話をする。それは真心があるからである。真心は慈愛を生む。慈愛は知識を生む。真心さえあれば不可能なものはない。役人は、民には母のように接しなければならない。民をいつくしむ心さえ汝にあるならば、才能の不足を心配する必要はない」
なんという心強い言葉か。誰しも自分の役目と自身の能力の狭間で不安をもたげる。もし鷹山のような上司がいたら、本来持っている能力を精一杯発揮できるのではないだろうか。
第二の役として「教導出役」を置いた。彼らは教師にあたり、鷹山は「地蔵の慈悲をもち、心には不動の正義を忘れるな」と指示した。
第三の役は「廻村横目」であり警察であった。同じく彼らにも「閻魔の正義、義憤を示し、心には地蔵の慈悲を失うな」と指示した。
これら三つの役目が驚くほど機能し絶望視された社会に回復の希望が甦った。
鷹山の産業改革の全体を通じて特に優れている点は「産業改革の中心に、家臣を有徳な人間に育てることを置いたところ」であった。東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考え方である。東洋の思想家は常に富は徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみるのである。
やはり後世に名を残す偉人はその業績もさることながら、その人柄、人格の素晴らしさが印象的だ。