ジダンの宝 | 行く河の流れ

行く河の流れ

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

 ワールドカップ決勝戦の終了間際、フランスのジダンがイタリアのマテラッツィの胸に頭突きを浴びせ、レッドカードで退場となった。ジダンはこの試合で現役引退を表明しており、世界最高と称される技術の見納めとして世界中の人々が彼のプレーに注目していただけに無念の幕切れとなった。彼は目に涙をためて、ピッチを後にした。
 そのジダンの頭突きに関して「とても正当化されるものではない」との意見がある。しかし僕の意見は違う。ジダンは自分のこれまでのサッカー人生における数々の名誉や賞讃を捨ててまでも守るべきモノを守ったのだ。マテラッツィが放ったジダンの母や姉、そして家族を侮辱する言葉に対して、彼はそれを許すことができなかった。例えサッカーのキャリアに傷が付こうとも、ジダンは家族の誇りと名誉を守った。僕は彼の頭突きを正当化し評価する。
 「どんな場合も暴力はいけない」という言葉をよく聞く。果たしてそうであろうか。僕はこの言葉に偽善的な寒気を覚える。確かに男性が女性や子どもに対して手をあげるなどは話にならないとしても、対等の立場に立っている相手に対して「やられたら、やりかえす」くらいの気概が無くては、本当の対等とは言えない。その緊張感が暴力の抑止力になり、関係に緊張感を生み出す。それは相手に常に敵対心を持つという意味ではない。むしろその緊張感は「礼」を生むのだ。
 この話を巨視的に捉えれば国家の在り方にまで話が及ぶ。国と国との緊張関係は現実問題として「軍事力」を背景とした「外交」によってバランスが保たれている。その中で重要なファクターとなるのが「核」なのである。話が少し逸れ、このことについてはまた書けると思うのでジダンの話に戻そう。
 「やられたら、やりかえす」という気概には「守るべきモノは命をかけて守り抜く」という覚悟が必要だ。「守るべきモノ」には当然自分の命をかけなければならないからだ。マテラッツィはジダンの「守るべきモノ」を踏みにじった。そしてジダンはすべての名誉を捨ててまで「守るべきモノ」を守ったのだ。やはり僕はジダンが好きだ。