『国家の品格』 | 行く河の流れ

行く河の流れ

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

 とても話題になっている本であり、興味があるので読んでみた。僕の今の興味のある部分と重なる部分があったので、そこをまとめてみようと思う。
 筆者は16世紀の宗教革命に始まったプロテスタンティズム、特にカルヴァン主義を発端として現在の金銭至上主義を説明している。
 カルヴァン主義の最大の特徴はカルヴァンが著書『キリスト教綱要』の中で展開した「予定説」である。人間が死後、救済されるか否かはあらかじめ神の意志により決められている、という説である。つまり人間がこの世でどんなに徳を積み、人格を磨き、祈りを捧げても救済されるかどうかには全く無関係ということになる。
 そんなカルヴァン主義はヨーロッパでも理解されがたく、それほど宗教革命時代の一般人にとっては衝撃的な説だったのである。「救いの確証」を得たいと神の意志を詮索すること、望むことすら不遜なことなのである。
 本著では「自分はあくまで救われる側に入っていると確信し、疑念がわいたらそれは悪魔の誘惑としてはねつける」とし、自分は救済されるんだと確信を得るために「神から義務として与えられている職業(天職)に励む」ことになると述べている。そして金儲けに倫理的栄光が与えられた理由を「神が秩序ある社会をうまく機能させることは、神の栄光を増やすことになるから、救いの不安から逃れられ、自己確信につながる」とし、「利益のチャンスがあったら、それは神が意図し給うたものだから、積極的にそのチャンスを生かさなければならない」という価値観に求めている。
 このプロテスタンティズムが資本主義を進めたという見解はマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で明らかにしたことである。こちらの著書にも当たってみようと思っている。
 この『国家の品格』での中心的な論点は「論理」である。どの「論理」も論理的には正しいと言える。しかし、考える主体によってその「論理」の出発点が異なってくる。よって結果としての主張が異なってくるのである。その出発点は必ず異なる。なぜなら異なる考える主体だからである。国であればその国の文化・風土・歴史・経済あらゆる要素を総合してその出発点が決まる。その中で、アメリカの植民地として「合理化」政策に踊ってきた日本の出発点はどこか?と問うている書である。
 ライブドア事件に代表される金銭至上主義、合理主義に疑問を持っていた自分の感覚は独りよがりではなかったと安心させてくれた著書である。