第1話

 

■ 順調であるはずの朝

佐伯一博は、いつもより少し早くオフィスに入った。


都心の雑居ビルの一角。創業から二十年。場所は三度変わったが、この「朝の匂い」だけは変わらない。

コーヒーの湯気。
夜を越えて残った空調の冷気。
誰もいないフロアに、かすかに響く自分の足音。

 

(……今日も、特に問題はない)

 

無意識に、そう言い聞かせるように思った。


売上は悪くない。取引先も安定している。社員数も、ITエンジニア不足が叫ばれる今の環境を考えれば、十分すぎるほどだ。

それでも、佐伯の胸の奥には、いつからか「何かが足りない」という感覚が沈殿していた。


焦りでも、恐怖でもない。
言葉にしようとすると、形が崩れてしまう、正体のわからない違和感だった。

 

社長室のデスクに腰を下ろし、ノートパソコンを開く。
受信トレイには、相変わらず多くのメールが並んでいる。

 

(……人の顔が、見えない)

 

ふと、そんな思いが浮かんだ。

 

 

 

■ 「客先常駐」という日常

佐伯の会社のエンジニアの七割は、客先常駐だ。
業界では珍しくない。むしろ「堅実な経営」と評価される形態だ。

 

だが、その「堅実さ」が、いつからか佐伯を苦しめるようになっていた。

社員の多くは自社オフィスに来ない。


客先へ直行し、仕事を終えればそのまま帰宅する。いわゆる直行直帰だ。

会社で顔を合わせるのは、幹部であれば月に一度の全体会議。
一般社員であれば、評価面談のときくらい。

 

「社長、現場は問題ありません」

部長からの報告は、いつも簡潔で整っている。


数値も、トラブル件数も、すべて想定内。

だが佐伯は、その言葉の奥にある“温度”を感じ取れなくなっていた。

 

(問題がない、ということが、本当に問題がないという意味なのか)

 

そう自問しても、答えは返ってこなかった。

 

 

 

■ 退職届という「定期便」

月に一度、人事担当から上がってくる資料がある。
退職者一覧だ。

 

特別多いわけではない。
だが、少なくもない。

 

「今回も一名です。二十代後半のプログラマーで、理由は“キャリアの見直し”です」

淡々とした報告。


それが、この業界の“普通”だった。

佐伯は一覧に目を落とす。
名前に、うっすらと見覚えがあった。

 

(……どこかで、話したことがあったかな)

 

思い出せない。
その事実が、ひどく胸に引っかかった。

 

 

 

■ 創業期の記憶

ふと、創業当初の光景がよみがえる。


小さな事務所。中古のデスク。夜遅くまで続いた議論。

あの頃は、社員一人ひとりの顔も、声も、悩みも、自然と頭に入ってきた。
技術の話と人生の話が、境目なく混ざっていた。

 

(いつから、こんなに遠くなったんだろうな……)

 

会社は大きくなった。
仕組みも整った。
昔、思い描いていた「会社らしい会社」になったはずだ。

 

それでも、何かを置き去りにしてきた気がしてならなかった。

 

 

 

■ 噛み合わない会話

若手エンジニアとの面談。

 

「現場はどうだい?」
「特に問題ありません」
「やりがいは?」
「……普通です」

 

言葉は丁寧だが、熱はない。


佐伯は、次に何を聞けばいいのかわからなくなった。

 

(俺は、何を聞きたいんだ……?)

 

沈黙が落ちる。
その瞬間、佐伯ははっきりと自覚した。

 

――自分は、社長として、社員とどう向き合えばいいのかわからなくなっている。

 

 

 

■ 小さな声と最初の行動

中村という若手エンジニアとのやり取りを経て、佐伯は初めて“本音”を聞く。

 

「作業の意味がわからなくなることがあります」

 

その言葉は短いが、確かな重みがあった。

佐伯はノートに書き留める。
数字ではない。報告書にも載らない。
だが、現場のリアルだった。

 

翌日、佐伯は全社にメールを送った。
件名は「声を聞かせてほしい」。

匿名アンケート。
社長だけが確認する設定。

小さな一歩。
だが、確かに“共鳴”が生まれた瞬間だった。

 

 

 

■ 結び

順調に見える会社。
だが、問題は見えないところにある。

佐伯の胸には、その真実が静かに刻まれた。

 

(第2話へつづく)

 

 

 

 

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