第4話 管理を手放した先に宿る、真の安心
■ 突きつけられた「現実」の重み
「ケア・オフ・タイム」を導入して二週間が経過した。
事務室のモニターに映し出される数値は、目を覆いたくなるような惨状であった。
残業代は跳ね上がり、記録の未入力エラーも散見される。
何より、多くの職員たちの表情から余裕が消え、真壁を中心としたベテラン勢と、航平たち若手との間には、修復困難な深い溝ができていた。
その時、真壁が事務室に乗り込んできた。
目は充血し、手にはトラブル事象の報告書が握りしめられている。
「昨夜も、記録が終わらずに二時間も居残ったスタッフがいます。
田中さんのバイオリンの話や松本さんの雲の話は結構です。
しかし、その代償にスタッフの生活が壊されるなら、それは本末転倒ではありませんか!」
「施設長、これが望んだ結果なのですか?」
佐藤は、突きつけられた数字と真壁の怒りを、逃げずに受け止めた。
「その通りだ、真壁さん。
これまで作ってきた管理された状態。
私も美しいと思っていた。
自分もそれに従ってくれた皆のことを誇らしく思っていた。
だが、違う。
その管理された状態は、ただの『自己満足』に過ぎなかったのだ」
「もちろん、真壁さんの言う通り、スタッフを犠牲にして成り立つケアなど存在しない」
「だったら、すぐに中止してください!
また元の効率的なシステムに戻すと、今ここで約束してください!」
佐藤はゆっくりと立ち上がり、モニターではなく窓の外の景色に目を向けた。
「申し訳ないが、今は戻せない。今のやり方を変えるつもりである」
■ 「管理」の再定義――問いを分かち合う
翌日、佐藤は全職員を集めた。
緊迫した空気の中、ホワイトボードの中央に一本の線を引き、左に「効率(システム)」、右に「心(ケア)」と書き込む。
「これまでは、私が左側の『システム』を完璧に作り上げ、皆に強いてきた。
それは、この施設を倒産と崩壊から守るための、私なりの正義であった」
佐藤は一同を見渡した。
「皆のおかげで、その動きは結果につながった。
本当に皆の奮闘には感謝している。
しかし、それは終着点ではなかった」
「私が作ったシステムは、入居者を『管理』するためのものであり、皆が入居者の方々を『ケア』するための支援ツールにはなっていなかった」
「何をいまさら……」
真壁が独り言のようにつぶやく。
「せっかく出来上がったと思うものを更に変えるのはためらいがあります。
また、これまで頑張ってくれた方々には申し訳ないという気持ちもあります」
佐藤は真壁の顔を見たが、彼女は慌てて視線を外す。
「しかし私はもう一度、皆と共に新たな挑戦をしたいのだ」
「……どういうことですか?」
真壁が不審そうに声を出す。
「これからは、効率一辺倒の世界から脱却し、次のレベルを探り、目指していきたい」
「無理を承知でケア・オフ・タイムを設定した。負担がかかっていることは承知しているが、もしかするとその時間を通じて入居者との距離を感じた方もいるのではないか。何か感じた方はいますか?」
佐藤は皆の顔をぐるりと見渡す。
「もし何かを感じた者がいれば、その気づきをどうすれば日々の業務に無理なく組み込めるかを、共に考えたい」
佐藤の提案は、上からの命令による効率化ではなく、現場の生きた反応を感じることからの「再出発」であった。
「真壁さんをはじめとしたリーダーの皆。皆が苦労して守ってきた『正確さ』や『安全性』は、この施設の宝である。しかし、私の人間としての出来がまだ足りなかった」
「この施設は利益も圧倒的で、モデル事業所的な位置づけにもなっている。しかし、それは理想の施設ではなかった」
「私たちは人へのサービスを提供している。それは物体へのサービスではなく、心を持つ人へのサービスである。『人間を管理する器』ではなく、『心を通わす場』にしていきたい。協力してほしい」
佐藤は深く頭を下げる。
松本さんの「雲を見たい」という瞬間、田中さんのバイオリンの話を聞くため。
この時間を作るために、事務作業の時間配分やサポート体制も再検討する必要があった。
プライドはなくなり、あるのは一人の人間として仲間と共に「良い場所」を作りたいという切実な願いのみであった。
■ 不協和音が調和に変わる瞬間
沈黙が流れた。
最初に動いたのは航平であった。
「僕は、松本さんのあの日の言葉を記録に残したい。単なる『食事量10割』ではなく、何を感じたのか。それを共有できれば、次のスタッフもどう接すればよいか迷わなくなる。それが一番の効率になると思う」
真壁は航平の言葉を聞き、佐藤の頭をじっと見つめた。
長い沈黙の後、ため息をつき、こう言った。
「……施設長。あなたは本当に勝手な人です。せっかく守ってきた城を自分から壊すなんて」
だが手元のタブレットを開き、松本さんの様子を見れば放っておけないことも理解した。
「航平くん、その心の記録をどこに入力するか、フォーマットを考えなさい。システム変更は私の許可後でよい」
真壁もまた、システムに閉じ込めていた自分の「介護職としての誇り」を取り戻そうとし始めたのである。
■ ひだまりの家の「新しい音」
数か月後、ひだまりの家の廊下には再び「音」が戻っていた。
以前の無秩序な怒号ではなく、インカムから流れる声には確かな体温が宿る。
『こちら2階。佐藤さん(入居者)が昔の歌を口ずさんでいます。10分だけ隣で聴かせてもらいます。真壁さん、フォローお願いできますか?』
『了解。記録をまとめて終えました。10分後に交代しましょう』
効率化は依然追求されているが、それは「時間を削るため」ではなく、「誰かの大切な瞬間に寄り添う時間を生むため」の手段となっていた。
残業は発生するが、以前のような悲惨な状況には戻っていない。
仕事に「意味」を見出した職員が率先して動き、残業も苦ではなくなった。離職率も下がり、職員同士のコミュニケーションも増えている。
経営的な相乗効果も生まれつつあった。
■ 結末――「問い」を生きる
夕暮れ時、佐藤は松本さんの隣に座った。
「松本さん。今日の雲も、流れていきますね」
松本さんは、佐藤の手をそっと握り返す。
「……ああ。でも、あんたが隣にいてくれるから、怖くないよ」
松本さんの瞳には虚無感は消え、穏やかな夕日の光が宿っていた。
経営とは、完璧なシステムを作ることではない。
組織に眠る「問い」を掘り起こし、不協和音を恐れずに絶えずチューニングするプロセスそのものである。
施設内に流れる空気は無機質な静寂ではなく、一人ひとりの人生が重なり合い、時にぶつかり、時に寄り添いながら響き合う、静かだが力強いハーモニーであった。
(どの組織にも問いは眠っている。そしてその問いが誰かの心を動かした時、世界は変わり始める)
佐藤は、自分の手のぬくもりを信じ、次の一歩を踏み出した。
――完――
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