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Dream Box

このブログの内容は5割の誤解と4割の勘違い、2割の嘘で成り立っています

( @∀@) 「慰安婦捏造報道?ウr…我々も当初から吉田清治は胡散臭いと思ってたニd…ましたヨ?

我々の報道が河野官房長官談話に繋がった?

河野談話は政府が元慰安婦に聞き取り調査を行い、その証言が信用できないものであったにも関わらず責任を認め謝罪をしたんだから我々の記事とは関係ないですヨw

クマラスワミ報告だって吉田証言を元に彼女が独自の聞き取り調査の上で行ったものですから、我々の記事は影響を与えてないじゃないですかw

世界は慰安婦の強制性の有無なんて問題にしてませんヨ?

日本軍が慰安婦という性奴隷を利用してたのは事実なんですから反省は必要でショ?

慰安婦問題は1993年の宮沢訪韓時の謝罪の表明を韓国も受け入れてこの問題は解決したんですヨ

その後韓国が事あるごとに蒸し返してきたのは韓国の問題であって我々の責任ではありませんヨw

韓国も日本もお互いの非は認めあって歩み寄る努力をすべきであって、朝日新聞には何の責任もありませんっ

我々も吉田清治に騙された被害者ナンですからっ!」



今夜の報道ステーションの慰安婦捏造問題特集を要約するとこんな感じでした

1992年に韓国留学中に慰安婦問題の記事を書いた植村隆朝日新聞記者の存在や、

彼の韓国人妻の母親が挺対協(慰安婦問題を糾弾し元慰安婦も賠償請求をサポートする市民団体、に見せかけた韓国内の親北朝鮮反政府勢力)の代表を務め、賠償請求裁判の原告団長を務めていた事に加え、

日本から賠償金を取れると元慰安婦(太平洋戦争か朝鮮戦争の慰安婦か微妙)をそそのかして集め、集めた裁判費用数億円を着服して逮捕されていた事などについては全く言及がありませんでした

彼が吉田清治の著作を利用して慰安婦問題を提起した理由が、彼の妻の母親による詐欺行為の片棒を担いだ可能性について全く触れないのは片手落ちもいいところでしょう


挺対協の元代表として尹貞玉を出したのはともかく、彼女に思想的な影響を与えた金一勉という在日朝鮮人の存在や、

番組の取材に答えていた吉田清治の息子と称する人物の証言を紹介していましたが、それが養子であり吉田より僅か4歳年下の在日朝鮮人李貞郁であるか否かについて言及していないことも不充分でした

吉田清治のプロフィールについてもわずかに触れたのみで、その前半生の実在性が不確実な事や戦後共産党から地方議員に立候補したという事実にも触れていません


検証とは名ばかりで朝日新聞にとって都合のいい部分だけを掻い摘んで時系列に並べて尺を稼ぎ、番組後半で人権問題に絡めて慰安婦問題の人道的解決が必要と纏めており、自分たちの責任や日本国・日本人の名誉を毀損し続けてきた事に対する反省や償いについては何も語らず終わらせていましたね






( ・ω・) 「やりなおし」


朝鮮半島の人口は1925年に1850万人、1930年に1950万人、1942年に2500万に達しています

1925~30年の間に増加した約100万人が1942年には12~17歳になっていた事になります

その半分が女性として約50万人です

現在の韓国人が言う“強制連行されて性奴隷にされた若い娘達”はこの世代に属してる事になります(多少の前後はあるでしょうし、人口増加数=出生数ではないが大きな差はないとして)

彼らが『従軍慰安婦20万人』というならその母数50万人から抽出された事になるでしょう

割合にするとこの世代の少女の5人に2人が、朝鮮半島のあちこちで日本軍や官憲に無理矢理連れ去られていったというのです

これがどれだけバカげた主張か分かる数字です

例えば、人口100人程度の村落でもこの世代の少女は5人はいるでしょう(老人世代が20人、壮年~青年世代が60人、未成人世代の子供が20人でその半分が女性として、さらにその半分は未就学世代の幼女として除外)

朝鮮半島全土で満遍なく人さらいをやったと云うのは非現実的で、ある程度限られた地域に偏って行われたでしょうから1件当たりの強制連行人数は5人中2人という比率を大きく上回っていた筈です

その5人中2~3人が人間狩りの様に連れ出されていって、大人世代の80人は反抗も暴動も起こさず見ていただけだったのでしょうか?

現在でも自称元慰安婦本人の証言“だけ”は出てきますが、目撃者や家族の証言は何も出てきません(吉田清治の『私の戦争犯罪』が1982年であり、1930年に娘を生んだ親世代はこの当時まだ70~80代であり、全て亡くなっていたとは考えられない。強制連行を目撃した同世代なら50~60代で政治的に最も関心のある“煩い”筈のこの世代が黙っている筈が無い)

<ヽ`∀´> 「必要なら今から準備するからちょっと待ってるニダw」

これが人口が密集する街や都市圏になると1区画だけで当該世代の娘が10~20人はいたでしょうから、ある街角で5~10人の若い娘が拉致されていったとすれば、目撃者となる家族や近所の人間の数は100や200人ではきかない筈です

にも拘らず現在までそうした目撃者の証言は1つも出てきていません

<ヽ`∀´> 「そんなのが有効な証拠になるニカ?それは良い事を聞いたニダw」

『私の戦争犯罪~』を書いた吉田清治が済州島で慰安婦の人間狩りをやったと『告白』した後、現地の新聞社が80年代に取材をしても目撃証言は一切出て来ず「そんな事件があったら暴動が起きてる、本を売る為の愚かな捏造」と報じています(後に吉田本人がこれを事実でなかったと認めてるのはご存じの通り)


さらにある世代で5人に2人の割合で強制連行されて、その多くが証拠隠滅のために『殺された』とすれば人口動態に大きな影響が出るでしょう





http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1408161780/“【国際】ジャパンエキスポの韓国ブースだけ問題視する異様な光景 ジャパンエキスポは排他的なイベントではない[08/15]”

これは某所で拾ってきた韓国の人口ピラミッドですが、1925~30年生まれなら現在は89~94歳でその多くが亡くなっているでしょうがその子供たちは戦後の45~55年あたりで生まれている事になるでしょう

つまり現在59~69歳あたりがその世代になります

韓国のベビーブームは朝鮮戦争(1950~53年)の後に起きているので、55-59歳の世代から急激に増えているのが表からもわかります

しかし彼らの母親になる世代が50万人中20万人が慰安婦にされたと云い、その多くが殺された筈なのに人口増加に影響が出ていないのは何故でしょう

60歳から上の世代が急激に減っているのは、朝鮮戦争は元よりその前後の親北朝鮮勢力の赤狩りを称する李承晩による自国民弾圧の結果もあるでしょうが(推定60~120万人、ちなみに朝鮮戦争における南北朝鮮人の犠牲者は約400万人)、むしろその時代の食糧事情や医療水準の方が影響は大きかったでしょう

その後の人口動態に影響が出ていない事が、彼らを産んだ母親世代の女性に『異常』が起きていない事の証明になるんではないでしょうか



これが第2次大戦で多くの死傷者を出した戦争当事国になると、見事なまでに子供世代が凹んでいます

慰安婦の存在・その数については置くとしても、韓国には人口動態について朝鮮戦争の影響も無いように見えるのが不思議なところです



これはカンボジアの人口ピラミッドですが、1970年代にポルポトのクメール・ルージュによる大虐殺を経験したカンボジアの人口動態はこのように歪に凹んでいます

人口800万人で200万の虐殺が起きたこのケースは極端ですが、朝鮮半島でもある世代で女性限定で50万人中20万人が『虐殺』されたと云うのなら目に見える影響が出ていない筈はないでしょう

まあ20万人の『従軍慰安婦』が如何に荒唐無稽な話か、という事の解説でした






( ・ω・) 「今夜11日、報道ステーションが遂にこの問題を扱うそうですが、核心的な問題であり彼らが捏造した強制性には口をつぐみ“人権”問題にすり替えてくる事が簡単に予想できます」




時々やってるこのシリーズ

今回は北九州のあたりです



現在は貯木場になっている湾口の辺りをさらにズーム



『へ』の字型の新しい堤防が作られていますが、その内側にある短い突堤のような物が本題です

この周辺は埋め立てが進んでかつての堤防も大部分は埋め立て地の中に埋没してしまいましたが、昔はもうちょっと長かったようです



堤防の中に何か細長い楕円形が見えますね



いつもの様に拾ってきた画像ですが、地上レベルだとこんな感じです

これって実は1910年代に建造された桃型駆逐艦『柳(やなぎ)』なのです


                      画像はネームシップの『桃』

いわゆる『軍艦防波堤』というもので、さらにその根元の方にも2隻の駆逐艦が埋まっています



それが彼女たち、秋月型駆逐艦『凉月(すずつき)』と『冬月(ふゆつき)』です


                     画像、上はネームシップの『秋月』

冬月は秋月型の改良版で『冬月型』とも称しますが、一部設計が簡略化され艦橋が大きくなってるそうですが、ちょっと見には区別はつきません

秋月型3番艦である凉月は開戦から1年が経過した1942年末に完成、同8番艦の冬月は44年5月に完成します

共に緒戦の勝利の味を知らず、敗勢が濃厚になった時期に生を受ける事になりました

両艦とも損傷などの為日本海軍最後の決戦の舞台となったレイテ作戦には参加できず、最初で最後の大舞台が1945年4月の戦艦『大和』による沖縄特攻の一員として、軽巡洋艦『矢矧』を旗艦とする“栄光の”第2水雷戦隊に加わることになるのでした

猛烈な航空攻撃の末に大和が沈むと作戦は中止、両艦はそれぞれに佐世保へ帰投します

比較的損傷の低かった冬月は同じく作戦に参加して沈んだ駆逐艦『霞(かすみ)』の乗員を救助して帰りつきますが、艦前部が大破していた凉月は前進による浸水を避ける為バックで進みながら辛うじて佐世保港に辿りつきます

即刻ドックに収容されました凉月でしたが、入渠と同時に力尽きて擱座してしまうのでした

その後応急作業を行っていた乗員3人が浸水による沈没を回避するため、防水扉を自ら閉鎖してその命と引きかえに艦を救ったことが判明します

応急修理だけを施された凉月は佐世保港の一角に係留されたままとなりますが、終戦直前には来襲した敵戦闘機を対空戦闘の末に撃墜もするのでした

戦後には冬月は日本の主要水路上に撒き散らされた機雷の掃海作業に当たりましたが、損傷の大きかった凉月は復員船として使われる事も無く除籍されるのでした


一方第1次世界大戦前後の建造である桃型駆逐艦である『柳』は太平洋戦争が始まる以前に除籍となっていました

最後の駆逐艦である秋月型は排水量3000㌧にも達していましたが、はるか以前の設計である桃型はわずか800㌧弱の小型艦であり、第2次大戦時には船団護衛くらいにしか使い途がなくなっていたのです

尤も柳の晴れ舞台は第1次世界大戦にありました

日英同盟の求めにより欧州に派遣される事になった第2特務艦隊を構成する12隻の駆逐艦の1隻としてマルタ島を根拠地に地中海で船団護衛にあたったのでした(第1特務艦隊はインド洋で、第3特務艦隊はオーストラリア付近で活動)

日本ではあまり知られていませんが、第2特務艦隊の奮闘はイギリスなどでは大きく評価されています

柳ではありませんが、同じ特務艦隊の『榊』『松』の両艦がUボートに襲撃を受ける中、危険も顧みずに被雷した英輸送船乗員の救助に当たったことが称賛され両艦長以下27人に英国王ジョージ5世は勲章の授与を決めます

他にも当時の海軍大臣だったウィンストン・チャーチル(後の英国首相)は日本艦隊に感謝と称賛の電報を送ったとか



この救出劇の後には日本海軍の護衛でなければ出港したくない、と言いだす輸送船の船長が続出したとも言います(その1ヶ月後の護衛作戦で榊は魚雷を受け大破、艦長以下59人が死亡。柳など4隻は増援隊として後から派遣)

1917年5月からインド洋や地中海で行われた護衛任務により運ばれた兵員数は70万を越え、特に榊らが参加したエジプト-フランス間の大輸送作戦では10万もの兵員を送って戦況不利な西部戦線を支えたのでした


この3隻が1948年に防波堤として当初はそのまま海に沈められましたが、1950年代には海岸と繋がる突堤の一部となります

60~90年代にかけて破損が進んだことからコンクリートで埋設され、また湾岸埋め立てが進んでいくに従い現在の様な『柳』の部分だけが堤防として残る形になるのでした

防人の歴史が伝わるこの土地で役目を終えて、なお日本を守るためにその身を捧げているのかと思うと何やら熱いものがこみあげてくるのです




今年の3月、冬月・凉月の名を受け継ぐあきづき型護衛艦『DD-118 ふゆづき』『DD-117 すずつき』が相次いで竣工し日本の四方の海の守りに加わりました

伝統というものはこうやって培われていくのでしょう




( ・ω・) 「秋月型実装早よ」