水平線の彼方へ 其の1 | Dream Box

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このブログの内容は5割の誤解と4割の勘違い、2割の嘘で成り立っています



久々のググルマップネタ

このスクショを撮った時はまだ航空写真地図が使えたのですが、6月下旬あたりの改悪で完全に使えなくなってました



イギリス南部のポーツマス軍港、日露戦争の講和会議が開催された地でもあります





もう赤枠の中にデカデカと表示されてますがヴィクトリー号です

もう1つ注目しといて欲しいのが、上図のポーツマス海軍基地の表示の下の桟橋の下に繋留された細長い船です

これが後述のウォーリア号です







これはトラファルガー海戦(1805年)でホレイショ・ネルソン提督が座乗したHMSヴィクトリーです

乾ドックに鎮座する記念艦となっていますが、実は今でも英海軍の軍籍を持つ立派な軍艦なのです

もっとも横須賀の三笠公園に埋め込まれた形で展示されている戦艦『三笠』も、正式な籍は防衛省にある自衛隊の装備品という事になっているそうですが(年に数回自衛隊の学校の生徒らが清掃活動をする教材という様な扱いらしいです)

尤も三笠の保存と修復には色々謂れがあるのですが、勿体ないので項を改めて語りたいと思っています

このヴィクトリーは『戦艦』ではなく、当時の呼称で『戦列艦』という呼び方をされていました

当時は帆船なので甲板上には帆走用の索などが張り巡らされていて、とてもじゃありませんが現代の軍艦の様に甲板上に艦砲を並べる事などできません

当時の大砲の射程も1600~200m程度しかなく、お互いに横向きになり船腹を晒しつつニョッキリ突き出した大量の大砲で撃ちあうのが海戦の基本でした(射程の長いカノン砲は砲弾が小さく威力も限定的、射程の短いカロネード砲は威力の大きな砲弾を短時間に何度も撃ち出す事が出来た)

一見して想像できるように各砲門は上下左右に砲身を向けて狙いを定める様な事はほとんど不可能であり、砲弾の形状もまっすぐ飛ぶような代物ではなかったので大量に大砲を並べて『適当に狙って撃つ』事くらいしか出来なかったのです

ネルソン提督は船腹を晒して縦列に航行するフランス・スペイン連合艦隊に対し、向けられる大砲が殆ど無い艦首を向けた2列縦隊で突撃するネルソンタッチと後に呼ばれる戦術を以って立ち向かいました



これは当時の常識からすると全くの異常な行動で、実際に英艦隊は敵艦隊の艦列に突入するまで一方的に撃たれ続け少なくない被害を出しました

自らは側面を晒して使う事の出来る大砲の数を増やし、敵艦隊の頭を抑える事で敵が使える大砲の数を極限するというのは海戦の常道でもあり、日露戦争における日本海海戦(奇しくもトラファルガー海戦から100年後の1905年)でも東郷提督の日本艦隊は数で優るロシアのバルチック艦隊相手にこの戦法(両艦隊の対峙する形から“丁字戦法”と称する)で砲弾を浴びせて一方的な完勝をえたのでした

ネルソンタッチはその逆を行く悪手とも言える様な戦術だったのですが、威力は大きいものの射程の短いカロネード砲を活かすには至近距離まで接近する必要があったのです

仏西の連合艦隊は英艦隊の突入による混乱に対処しきれず艦列を乱してしまいます

無線も無い時代なので旗旒信号などでしか意思の疎通が計れない海戦で、しかも話す言葉すら違う仏西の混成部隊だったので一度分断されてしまうとそこから立て直してもう一度秩序のとれた艦隊運動をするのは不可能だったのです(これは現代の海戦でもさして変わらず、まともな伝統の無い大陸国の海軍、いわゆる陸式海軍は海洋国の海軍には太刀打ちできない)

尤もカロネード砲の射程は兵隊が持つ長銃の射程にも等しく、敵旗艦ヴィクトリーを至近に確認した仏西艦隊は敵司令官の狙撃を命じ、これを仕留めたのでした

これにより英海軍は海戦には勝利したものの殊勲のネルソン提督を失う事になるのでした



当時の軍艦は命中率の悪い大砲を至近距離で撃ち合っていたので、船腹に大砲を突きだして並べつつその一帯に装甲板を張り巡らせておけば良かったのです

現代も基本は変わりませんが大砲とはピンポイントで命中を期すような物ではなく、数を並べて砲弾のシャワーで面を制圧する兵器です

しかし百発一中の大砲を100門並べるのも十発一中の大砲を10門並べるのも与えられる命中の期待値は同じであり、100門を並べる為に巨船をしつらえ広範囲に防御装甲を貼って敵にとっての的を大きくするより10門にした方が重量も軽く砲員の人数も少なく済み、また損傷時の浸水のリスクになる船腹の開口部を減らす事が出来る防御上のメリットもありました


                           HMSウォーリア

大砲の技術が大きく向上した19世紀半ばに作られた戦列艦は三層に設けられていた砲甲板を一層にして、ヴィクトリー号では104門あった大砲もウォーリアでは40門にまで減らされています(尤もウォーリアの砲甲板が一層なのは全金属製の設計の為重量が嵩みそうで、復元性の確保の為に背の高い船体にする事が出来なかったという事情もある)

また船体中央の煙突が見て分かるように、動力を併用した機帆船です

時代的には黒船のペリー提督の旗艦サスケハナ号と同じ世代の船ですが、木造船体の外輪式で排水量2500㌧程度のサスケハナに対し、ウォーリアは全鉄製船体にスクリュー推進で排水量が9000㌧を超える巨艦でした(イギリスは地理・気候要因的に木材の調達が容易でなく、この時期には既に鉄材の方が用意が簡単だった。)

イギリスが確かに世界一の帝国だった時代の証明とも言える軍艦でしたが、やはり大きすぎて使い勝手が悪かったらしく練習艦として使われただけに終わった様です

ちなみにヴィクトリー号は排水量2160㌧程度しかなく建造はウォーリアより100年近く昔の1765年でしたが(つまりトラファルガー海戦時には既に結構な老巧船だった)戦列艦と呼ばれますが、最新で当時としては巨艦であるウォーリアは数段格下の装甲フリゲート艦とされ戦列艦には数えられません

当時の基準では大砲の数で艦種が決定されていたので、ウォーリアの様に戦術の転換期に生まれた船は格下なのに遥かに強いという様な逆転現象が起きるのでした



ちなみにこのウォーリアの備砲は何種類かありますが何れも最大射程が3000~3500mにも達し(但し有効射程はその半分以下くらい)、軍艦の砲戦距離が伸びていく先駆けともいえる艦でしたが、同時期にとんでもない横槍が入ります

1866年にアドリア海(イタリア半島とバルカン半島の間の細長い海)にあるオーストリア領リッサ島(現クロアチア領ヴィス島)近辺で行われたリッサ海戦が原因でした

普墺戦争(1866年)に介入したイタリアが艦隊を派遣、当時オーストリアの領土だったリッサ島に砲撃を加えてオーストリア艦隊の出方を待ちます

オーストリア艦隊は補助艦こそ同数でしたが、主力の装甲艦が伊艦隊の12隻に対し墺艦隊は7隻しか派遣できず不利は明らかでした


                        リッサ海戦1866 赤:墺艦隊 青:伊艦隊

見て分かるように、トラファルガー海戦と同様に大量の艦砲を並べる1列縦隊の横腹に突撃し、敵艦隊を分断して乱戦に持ち込もうとする作戦です

この海戦では伊艦隊の指揮の不味さが指摘されていて、まず小型艦艇を戦闘に参加させなかった事や、戦闘開始直後に司令官が意味不明な旗艦変更が行なった事で伊艦隊の艦列が乱れたところに墺艦隊が突撃し分断に成功します

さらに墺艦隊旗艦が敵艦に艦首から体当たりを敢行し敵艦を沈めるのでした

戦闘自体はグダグダになってしまい、結局はどちらが勝ったか判然としないまま終了します

しかし終始積極果敢に戦った墺艦隊の印象と、敵に倍する戦力を持ちながら主力の装甲艦2隻を失ない死傷者の数でも4倍以上の損害を出した伊艦隊の敗北と見られています

墺艦隊で唯一大きな損害を出したのも非装甲の木造艦でありながら、旗艦の奮戦を見て“調子に乗って”伊艦隊の装甲艦に体当たりをかまして逆に大破させられたのが1隻いただけでした

この海戦の教訓として大軍を擁する側の戦意や指揮系統が混乱している場合、せっかくの大軍が意味をなさない事、

戦闘では常に積極的に戦う事、

戦闘中の無意味な旗艦変更などしてはいけない事、

非装甲艦で装甲艦に体当たりをしてはいけない事、

そして装甲艦と言えど喫水より下は非装甲であり、そこに大穴を開ける体当たりは有効という間違った常識が誕生してしまった事でした


この結果およそ30年後の日清戦争の黄海海戦(1894年)を戦った日本・清両国の軍艦の艦首喫水下にも体当たり用の衝角(ラム)が作られていました





図で見ると1列縦隊の横腹を食い破ろうとするトラファルガー・リッサ海戦と同じ様な形であり、主力艦のサイズでも大きく上回る清国海軍の必勝の形に見えます

特にアジアでは清国しか持っていない定遠・鎮遠の2隻の戦艦(ドイツ製は)、日本海軍の主力だった防護巡洋艦(いわゆる三景艦、フランス製)の2倍近い排水量を持つ巨艦でした(あくまでアジアでは)

上の図を見て貰うと分かりますが、2つの主砲が前後左右に斜めにずらした特異な形状で、4門の主砲を前後に向ける為の設計でした(左右には互いの砲塔が干渉し合う為2門ずつしか指向できない)

艦首でのラム攻撃に加え前方に火力を集中できる定遠級戦艦の特徴もあり横隊の陣形を採ったのでしょう

一方日本の主力である三景艦は定遠級の主砲(30.5㎝砲)に対抗できる32㎝単装砲を1門だけ搭載する、というか明らかに船体に対して大きすぎる主砲を積んだ無理のある設計であり、事実戦闘ではほぼ役に立たなかった様です

何せ撃つだけで艦の向きが変わるほどだったと言われ、後の4000㌧クラスの巡洋艦の主砲が15.5㎝だった事を考えると不釣り合いに大きすぎる備砲でした

当時の日本の経済力では定遠級に拮抗できる大型艦が買えなかったのも事実ですが、そのクラスの巨艦だと日本国内で入れる港が限られてしまい、運用上大きな制限が出てしまう事から定遠級の半分の排水量の艦を3隻揃え、1セットで定遠級に対抗できるようにと考えられた物でした

この為上図の厳島と橋立は主砲を艦首側に備えられていますが、松島だけは艦尾側に向けた設計になっています

定遠級の千鳥配置の主砲塔といい、三景艦(松島型防護巡洋艦)といい奇妙な兵器だった訳ですが、リッサ海戦時とも比べ物にならない1万mに近い距離から砲戦が始まるほど技術は進歩していたので(実際の有効な砲戦距離は3000m以下)、新しい時代の海戦がどのような形になるのか誰にも見当が付かず手さぐりの状態だったと言えるのでしょう


( ・ω・) 「というか日本人と中国人をモルモット扱いにしてたと言うべき」

日本側の不利は免れない状況でこの海戦を注視していた各国の観戦武官らも清国の勝利を予想していましたが、これに反して海戦は日本側の圧勝に終わります

日本艦隊の自慢の大口径砲は先述したように役に立たなかったのですが、従来の舷側に備え付けられた20門余りの中小口径砲による正確な速射による砲撃と軽快な艦隊運動で敵を翻弄します

日本艦隊は2艦隊がそれぞれに1列縦隊をとり先頭艦の操艦に付いていくだけで済むのですが(サラッと言ったがこれが結構難しい)、清国艦隊は横一列に並ぶ横隊だったので緊密な連絡が取れなければ艦隊として左右への転進もままならなかったのです

人間で考えてみれば分かりますが、10人が縦に並ぶムカデ競争なら訓練次第で前後左右に動く事は可能でしょうが、10人が横に並ぶ10人11脚では前進すら困難であり左右に曲がる事などほとんど不可能です



日本艦隊は横隊で満足に身動きも取れない清国艦隊の背後に回り込むなど好き放題に撃ちまくり、恐怖を覚えた清国側の軍艦2隻が戦闘を放棄して逃げ出すという近代海戦史では他に有り得ない醜態を晒します(その艦長は帰国後死刑になりました)

しかし主力の定遠級2隻には160発もの砲弾を撃ち込んだものの掠り傷程度の損害しか与える事ができず、逆に日本艦隊は4隻もの大破を出したにも拘らずこの海戦は日本側の圧勝に終わったのでした

この海戦でリッサ海戦以来30年に渡って流行していたラム戦術は全くの幻想に過ぎない事が証明され、大口径砲の一撃もさる事ながら統制のとれた中小口径砲の速射と火力の集中、艦隊運動という現代に続く戦闘の常識が再確認されたのでした

なお中国では現在でもこの海戦の敗北は自軍側のそれぞれの艦長が無能だったからと信じられており、また黄海海戦以外の戦闘で日本側が国旗を偽装したり海に投げ出された兵員を皆殺しにしたと云う様な残虐行為があったから、等という捏造された風説が罷り通っているそうです(教科書にも書いてあるんだとか)

これらの海戦では両艦隊に列強各国の観戦武官や従軍記者などが乗り組んでおり、そうした不正行為や戦争犯罪が隠し通せる筈がないのですが、事実が気に入らなければ事実の方を捻じ曲げてしまえばいいと云うのが今も続くこれらの国の民族性なのです






(# ・ω・) 「6月下旬くらいにChromeに表示されてるフォントが微妙に変ったんで嫌な予感がしてたんですが、この春に改悪されたグーグルマップが最近また改悪されました

以前の旧バージョンでは図形と航空写真モードを切り替えることができましたが、新Gマップでは航空写真モードがグーグルアースにされてしまうのです

しかし春先までクラシックモードといって以前のバージョンが使えていたのですが、これも廃止

またしかしライトモードを使う事で(非常に分かり難い切り替え方法にしてあった)旧来の航空写真を使った平坦なメルカトル図法の地図を使う事が出来たのですが、これも7月あたりに廃止しやがりました

今のグーグルマップで航空写真地図を使おうとすると全てグーグルアースにされてしまいます



スマホ版のググルマップだと航空写真も使えるのですが、スマホでキャプチャした画像をPCに移して幅600ドットに加工して赤枠で囲ってだと面倒なので、この後どうしようかなと悩んでます

一応このネタで書きかけてるのが3~4本あるのですが…

YouTubeも仕様が変って昔の小さい画面用の荒い画像もHD画質並みの大きめの画面での表示がデフォになって非常に見にくくなりました

どうしてこう自分たちが仕事してますアピールの為に、仕様を複雑な方に変更するんでしょうか」