海軍の休日 其の弐 扶桑型戦艦 | Dream Box

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このブログの内容は5割の誤解と4割の勘違い、2割の嘘で成り立っています

イギリスに発注した戦艦金剛を元に1915年に作られた低速重武装の戦艦が『扶桑型戦艦』でした

その前に船についてのあれやこれやを

船の大きさは『排水量』という数値で表わされます

なみなみとこぼれる寸前まで満たした巨大なプールを想像して下さい

そこに船を浮かべた場合、水面から沈み込んだ船の下部の分だけ水がこぼれます

この時、〔こぼれた水の量=船の重量〕となりこれを排水量と言います

ちなみに浮かない物体をこのプールに沈めた場合、こぼれた水量はその物体の体積に等しくなり重量を表わさなくなってしまいます(物体の中に水が入り込まない事が条件です)

例えば1立方メートルの水(があったら)の重量は1㌧です

では1立方メートルの鉄の塊りは約7.85㌧になります

水の約8倍も重いのですから浮かぶ訳がありません

ではこの鉄の塊りを厚さ1mmの鉄板にしたら1000平方メートルの鉄板になります

25m×40mの鉄板の四隅を縦横1mずつカットして折り曲げ23m×38mの天井部の開口した箱を造ります(カットした1平方mの鉄板4枚は箱の中に置いておきます)

この鉄の箱の容積は874立方メートルですが(厚さ1mm分は考えない)重量は7.85㌧のままなので浮かびます

体積874立方メートルの水の重量は874㌧なので、わずか7.85㌧のこの箱は水面から約8.9mm込みんで浮かび、このプールから7.85㌧の水をこぼす計算になるわけです

長々とした説明になりましたが、鉄の船が浮かぶのはこうした理由によります


船は同じ重量なら、当然ですが推進力(機関出力)の大きい方がスピードが出ます

もう1つの重要な要素として船型があり、細長い形をしている方がスピードが出ます

ボート競技で漕ぎ手が一列に並ぶ笹の葉のような細長いボートがありますが、安定性を犠牲にして高速性を狙っているわけです


ここでやっと本題に入れます

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                               金剛型

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                               扶桑型


装甲を犠牲にして速度を稼ぐ巡洋戦艦である金剛型の設計を流用して造られた扶桑型は、戦艦同士の殴り合いを想定した通常の『戦艦』であり、かなり無理のある物になってしまいました

主砲こそ同じ14インチ連装砲塔を用いていますが、金剛型の連装4基8門に対し扶桑型は連装6基12門の重武装

船体中央部の艦橋構造物や煙突の間に3番・4番砲塔を置き、そこにも厚い装甲を張る必要があったので巡洋戦艦の細長い船型では容積の圧迫は避けられなかったのです

この時、金剛を設計建造した英ヴィッカーズ社から14インチ砲3連装砲塔が提案されていましたが、同時発射した時に砲弾の運動エネルギーや気流が互いに影響して照準を狂わせる効果が懸念され却下されました

弾道の干渉は後に発射タイミングを1/100秒ていどずらす技術で克服できたし、同時期に3連装砲塔を採用した他国の戦艦ではそれほど問題化していなかったのも事実でした

3連装砲塔ならば金剛型と同じ4基でも連装6基と同じ12門を確保でき砲力は変わらず、防御装甲の面積を減らすことも期待できたのですが、多砲塔艦はこの時代の流行でもあり「造ってみたかった」というのが事実だったのではないでしょうか

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完成した扶桑型は広範囲に装甲を貼る必要から、逆に重量増大を嫌って「装甲を薄く」した結果防御力に問題のある艦になってしまいます

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1次改装では技術の進歩により発射指揮所や方位盤照準装置を装備、単に見張り台に過ぎなかったマストが各種施設を積み重ねた『前鐘楼』と呼ばれる艦橋構造物になっていきます(なんか既にヤバゲです)

前鐘楼の後ろの1番煙突にカバーが付いているのは追い風時に煙突の高温の煙が前鐘楼にかかってしまう事から追加されたもので、これがあまり効果が無かった事から後に日本軍艦の特徴ともなる芋虫煙突が生まれます

もっとも扶桑型の場合2次改装で煙突が1本で済むようになったので、根本的に解決してしまいましたが

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                     手前から奥に向かって「山城」「扶桑」「榛名」

なんか中央の扶桑の前鐘楼の根本が抉れてる様な不安定な形になっちゃっています

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                              画像は全て拾い物です
前からみるとそうでも・・・不安定ですね

軍艦の艦橋というより『やりこんだジェンガ』の様です

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「扶桑型超弩級戦艦、姉の扶桑です。妹の山城ともども、よろしくお願い致します」














元々は扶桑・山城ともに3番砲塔の砲口は後方に向けていたのですが、煙突がなくなった事でちょっと隙間が出来たので扶桑の物を前に向けてみたのです

「何を考えたのか」この砲塔の上に偵察機とそれ用のカタパルトを設置してみたかった物だから(この時代の流行でもあり他に置く所がなかったが、山城は常識的に船尾に置いた)前鐘楼にぶつかる怖れがあり、艦橋構造物の後方根本部分を切り欠いたような形状にしなければいけなくなってしまいました(正確には根元をえぐったのではなく、上のプラットホームをオーバーハングして張りだしただけ)

その結果、ちょっとした衝撃でポキッと折れちゃいそうな独特の形状の前鐘楼になってしまったわけです

外国からは「仏塔の様だ」ということで「パゴダマスト」と呼ばれてしまいました

設計当初は高速性など考えていなかったのですが、それでも完成当時としては「割と」足の速い戦艦でした

しかし第1次大戦の戦訓や技術の進歩により「もう2~3ノット」という事になり機関の強化や交換を繰り返し25ノット近い速度を得ますが、元の設計が古く問題があった為改装にも限界があったのです

はっきり言って「失敗作」でした

本来4隻建造するところを2隻で中止し、問題部分を改修した『伊勢型戦艦』へと移行します

伊勢も根本的な問題を解決できなかった点では失敗兵器の範疇に入るのですが、後に航空戦艦へと改装した事で有名になります

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                             伊勢型戦艦

扶桑型では船体中央に煙突を挟む形で配置された3・4番砲塔を煙突の後方に背負い式に配置したことで防御装甲を極限でき、改装時にボイラーの缶を増設するスペースも確保し易くなりました

前鐘楼も末広がりの安定感が増した構成になっています

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                             航空戦艦改装後の伊勢

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「超弩級戦艦、伊勢型1番艦、伊勢。参ります!」

















1942年、ミッドウェイ海戦の直前に伊勢型2番艦の日向の5番砲塔が訓練中に爆発を起こす大事故に見舞われます

直後にミッドウェイで正規空母4隻を失ったことでもはや使い道のないと考えられた低速戦艦の扶桑・伊勢型を空母に改造しようという計画が持ち上がりますが、最短でも2年近くかかる大工事となってしまう事から日向の後部備砲が失われたことも手伝い艦尾の主砲を排して水上機用の飛行甲板を設けようという事になります(結局扶桑型2隻の改装は見送られた。不幸)

格納庫を設けた為に飛行甲板は一段高くなってしまい、3・4番砲塔は後方への射撃が不可能になってしまいますが「どのみち使わない」のでこの不便は許容されました(ならこれも撤去して飛行甲板を拡大し搭載機数を増やした方が・・・)

飛行甲板を後部に設けたことで搭載機の発艦はカタパルトを使いますが、4番砲塔を挟むような位置に設置したものだから射撃の邪魔になり結局撤去することになります

じゃあどうやって運用するのかと言えば・・・乗せる機体の開発が間に合わなかったので「搭載機なし」になりましたw(可哀想というか無駄というか)

レイテ海戦では囮の小沢艦隊に属しますが搭載機がなければ活躍のしようもなく、それでも囮としてハルゼーの艦隊を釣り出す事に成功はしますが、本隊の栗田艦隊が「謎の転進」でその労も報われず

その後、日本本土への帰還時に空っぽの格納庫に物資を満載して持ち帰ったことが唯一の戦果となります

最後は港に係留したまま対空砲台としてのみ運用で、結局この改造は意味の無いものになってしまいました


もっと悲惨だったのが扶桑型の2隻です

旧式、低速かつ防御力にも問題を抱えた扶桑型は練習艦として内地に留め置かれたままとなっていました

米軍がフィリピン上陸を企図している事を知り南方との資源ルートを遮断されるのを防ぐ為に乾坤一擲の決戦を挑む事となり扶桑型戦艦にもお呼びが掛かります(要はそこまで戦力が欠乏していた)

後方配置でくさっていた乗員たちも勇躍して戦場へと向かいました

レイテ戦では主力・囮に続く別動部隊として西村艦隊に属し、大和・長門ら主力の栗田艦隊とは別ルートでレイテ突入を図ります

夜陰に乗じたスリガオ海狭の突破に成功したと思ったその瞬間、待ち構えていた米艦隊の射撃が扶桑に集中しほぼ瞬殺の態で落伍します(生還者0人の全滅)

旗艦の山城も集中砲火を浴びて「艦橋が折れ」、艦長が総員退艦を命じた2分後に転覆して沈みました(乗員1400人の内、生還者は2名)

西村艦隊が奮闘の末に全滅した後、栗田艦隊は転進して撤退するのでした


失敗作として生まれ活躍の場も得られずに沈んで行った扶桑型戦艦ですが、さらに不幸だったのは「扶桑」は「伊勢」と共に日本海軍の近代型戦艦のネームシップ(一番艦)だったにも関わらず一度も『聨合艦隊旗艦』として使われなかったのです

扶桑・伊勢型ともにしょっちゅうドッグ入りして改装工事が行われていた事も理由の一つですが、長門型が改装工事に入った短期間に扶桑型2番艦「山城」が旗艦に選ばれた事を考えると運の無い艦だったんだなと嘆息せざるを得ません

もはや扶桑型戦艦というより不幸型戦艦と呼ぶべきでしょうか

また基本的に同型艦であるにも関わらず、「ひゅうが」「いせ」は海上自衛隊の護衛艦にその名が受け継がれているのですが、幸運に恵まれなかった感のある「ふそう」「やましろ」は採用される気配がありません

戦艦名では他に「大和」「武蔵」「長門」がありますが、余りにも有名な艦名だけに国内外への配慮と日本の象徴的な艦が造られるまで「とってある」とも言われています

ただ長門型2番艦の「陸奥」に関しては軍艦では無いものの、原子力船「むつ」が存在します(船名は母港である青森県大湊に由来)

しかし試験航海中に放射能漏れを起こし、母港への帰港に反対運動がおき結局廃船となりました

戦艦陸奥も主砲の爆発により沈む事故を起こしており、こうした運の悪さからおそらくこの名前が受け継がれる可能性は低いと思われます







( ;ω;) 「今日10月25日はレイテ沖海戦の一連の激戦が繰り広げられた日であり、扶桑・山城をはじめとした多くの艦艇が沈んだ日でした」

だから弐は後に回したの