しかし自ら大兵力を派遣するには極東は遠すぎました
そこで同じくロシアの南下に安全保障上の脅威を感じている日本と同盟を組んで牽制する事にしたのでした
日英同盟は1902年に締結され、日露戦争(1904~5年)の日本海海戦では遥かバルト海から遠征するロシア主力艦隊の補給寄港を妨害したり、中南米の国々が欧州に発注していた軍艦を日本が購入できるよう仲介するなど協力がなされました(この時、艦を譲ってくれたアルゼンチンは日本がその戦争に勝利した事を喜び、それ以来の親日国となっています。つい先日も2020年五輪招致で日本を応援してくれていたそうです)
逆に第1次世界大戦(1914~18年)ではUボート(潜水艦)による通商破壊戦の脅威から海軍艦艇の派遣が要請され、駆逐艦18隻がインド洋から地中海で海上護衛戦や兵員輸送にあたりました(イギリスは金剛型巡洋戦艦4隻や陸上部隊の派遣も要請していた)
この間の死者78名はマルタ島のカルカーラの丘の英軍墓地に埋葬されており、イギリスの配慮で一等地が用意されました
派遣艦隊は船団護衛にあたり、ドイツ潜の雷撃で沈む商船の乗員を戦闘の最中に自らも攻撃を受けるリスクを怖れず救助したり、また商船を狙う魚雷に突撃し身を挺して守ったりしました
こうした行為により日本の派遣艦隊“第2特務艦隊”の現地における評価と人気は非常に高く(その勇気と功績を称え『地中海の守護神』と称揚されるまでに至る)、日本軍の護衛で出港したいと希望する船も数多く出たそうです(一方第2次大戦では決戦主義に凝り固まった日本海軍により国内外の海運は壊滅状態となり、日本の敗戦の主要因となる)
第1次大戦の戦勝国として列強の一員と評されるようになった日本でしたが、国際連盟の発足に伴いその規約に人種差別撤廃を盛り込む事を要求した日本の主張が、多くの海外植民地を抱えるイギリスの国益と衝突するようになり、次第に日英の関係は冷却化して行きます
日本海海戦の敗北により海軍力の大半を失ったロシアがこれを再建するのは第2次大戦後までかかり、極東への足掛かりを失ったことでイギリスにとって日英同盟の意義は達成されてしまったのも一因でしょう
この前後に日本海軍は主力艦だけで金剛型巡洋戦艦4隻・扶桑型戦艦2隻・伊勢型戦艦2隻という大戦力の整備を進めていました
さらに1917年には当時の世界最強級の戦艦『長門』の建造に取り掛かっていました
(定番の)間違いw

排水量4万tに達する巨艦に世界で最初に16インチ砲(実際は41cm)を装備した長門と同型艦の陸奥は、日本海軍の象徴となるべき最強の戦艦として生を受けました
さらにはグレートホワイトフリートの回航によりアメリカの腹の内を知った日本は、あり得るべき日米戦争に備えて海軍戦力の大拡充を計画します
『八八艦隊』と呼ばれるこの計画は主力である第一艦隊を戦艦8隻・巡洋戦艦8隻で構成し、且つ常に最新の装備で揃えるべく建造から8年に達した艦を惜しげも無く第二艦隊以下に格下げして最新最強の戦艦を作り続ける、という途方もないものでした
戦艦だけでなく巡洋艦以下の補助艦艇も大規模に揃えようとするこの建艦計画は日本の財政を破綻させかねないほどであり(海軍予算だけで国家予算の1/3に達する)、1922年のワシントン軍縮条約で中止に追い込まれた事は日本にとって幸いだったのです
米大統領ハーディングの提唱によるワシントン会議の眼目は、アメリカを東西から挟むように存在する日本とイギリスの日英同盟の解消と、有色人種として初めて列強に伍した日本の孤立化を狙ったものでした
第1次大戦でアメリカは英仏に有償の多額の戦時援助を行いましたが、戦後に敗戦国ドイツからの賠償を放棄した反面で英仏への債権を放棄する事はしませんでした
その結果英仏はアメリカへの借金を返済する為にドイツから賠償金を厳しく取り立てねばならず、ドイツ国民の恨みを買う事になり第2次世界大戦の一因ともなりました
戦争で疲弊した欧州は世界の中心から凋落しつつあり、アメリカの覇権を脅かす可能性は欧州とは逆にこの戦争で経済発展を遂げた極東の新興国の日本だけとなっていたのです
第1次大戦の戦勝国である日米英仏伊といった国はジュトランド沖海戦の戦訓を取り入れた戦艦の建造を競う様に取り掛かり、ある種タガが外れたような軍拡競争が発生していました
これが各国の財政を圧迫し新たな戦争を呼び起こす事が懸念された為、「軍縮とかしなくね?」という話になったのでした
日本にとっても渡りに船だったこの軍縮会議でしたが、保有できる戦力が対英米の6割しか認められない事が知れると海軍内の強硬派や世論から反対論が巻き起こりました
さらには海軍内に条約派(軍縮受け入れ賛成派)と艦隊派(反対派)の派閥が出来てしまい、後の日独伊三国同盟の推進/反対、対米強硬派/協調派などの対立の芽につながって行きます
この条約の発起人であるアメリカの真意として将来の対日戦においてイギリスが参戦して太平洋/大西洋のニ正面戦争を避けるための日英同盟の無力化があり、軍縮条約参加国は2国間での軍事同盟の解消という条件も盛り込まれていました
日本は対英米比7割の戦力の保持を要求していましたが容れられず、アメリカに対するストレスも溜まっていった訳です
しかし財政破綻する訳にもいかない日本がどうしても譲れない一線として要求したのが戦艦長門の姉妹艦『陸奥』の存続でした
軍縮条約ではこの会議の時点で完成していない建造中の艦は廃棄するとあり、日本側が「陸奥は完成してるし」と言えば英米は「どう見てもしてないだろw」と突っ込まれるくらい無理のある要求でした(実際85%程度しか完成していなかった)
長門
陸奥
姉妹艦なので同じ形状なのは当然ですが、もっとも分かりやすい差異は菊の紋章がある艦首部分でしょう
シンプルな長門に対し陸奥はちょっと凝ってるw(但し後の改修によって長門・陸奥とも似たような形状になってしまいましたが)
完成したとゴリ押ししたおかげで陸奥は存続を認められますが、その代わりに英米にも相当量の保有を認めなければならなくなりアメリカにコロラド級戦艦3隻の存続とイギリスにネルソン級戦艦2隻の新造を許す事になってしまいました
コロラド
建造開始は第1次大戦中であり軍縮会議までに完成していなかった為廃艦となる予定でしたが陸奥の存続と引き換えに新たに3隻の保有が認められ、当初4隻の予定だったコロラド級の内ワシントンを除く3隻の建造が継続されました
本来の計画では1番艦はコロラドでしたが、メリーランドの方が先に完成してしまった為メリーランド級とも呼ばれます
ネルソン
これら長門・陸奥、コロラド・メリーランド・ウエストバージニア、ネルソン・ロドネーの7隻はワシントン条約の象徴として世界の平和を護るビッグセブンと称されました
オーソドックスな形状のコロラド級に対し、主砲塔3基を全て前甲板に配置した野心的な設計のネルソンは世界の注目を集めますが、重量バランスが悪く舵が利きにくかったり艦橋に近い3番砲塔の射界が制限されるなど失敗作になってしまいました
コロラド級も本来は14インチ砲艦(約36センチ)として設計・建造された戦艦ですが長門型に対抗して16インチ砲艦に設計を変更しています
アメリカ軍艦だけあって設計変更もあり16インチ砲艦としても遜色のない防御力を持つと考えられていますが基本は14インチ砲艦です
この為最初から16インチ砲艦として設計され速力も頭一つ抜けていた長門型は軍縮期間を通して最強の戦艦と言われていました
長門の速力についてはこんな逸話があります
日本海軍は長門型の最高速力を23ノットと公表していましたが、煙突の数や形状から英米に「いやいや、もうちょっと出るだろw」と当初から疑われていました(コロラド・ネルソン級は21~2ノット程度)
条約締結の翌年の1923年に発生した関東大震災の折、黄海で演習を行っていた艦隊は急遽各母港に戻り救援物資を搭載して東京湾に急行しました
この際長門も25ノットを超える最大速力で被災地へ急ぎましたが、その後ろを演習を観察に来ていた英巡洋艦が追跡していたのです
これに気付いた長門が速度を落とし(落さなかった為バレたとも言われる)英巡をやりすごすと、彼女は礼砲を轟かせて去っていったそうです(長門の砲術長が爵位持ちだった為と言われる)
この英巡の名は諸説があり、
「ディスパッチ」・・・その直後、神戸に寄港した記録がある
「プリマス」・・・海軍の重鎮・福留繁中将の晩年の回想録の著述
「ホーキンズ」・・・福井静夫造船技官、戦後は研究家の推定
事実は今一つ分かっていません
日本海軍はワシントン条約で建造中だった八八艦隊の計画艦である戦艦『加賀・土佐』と巡洋戦艦『天城・赤城』の4隻を中止する事になりました(この他に紀伊型戦艦2隻も中止)
そこで天城型2隻をこの条約では特段な制限を設けられなかった空母に改装する事にしていたのですが、関東大震災により横須賀で建造されていた天城が台座から落ちて修復が困難なほど破損してしまった為、標的艦として使われる筈だった加賀を急遽空母に転用することになりました(赤城の建造は広島の呉で行われていた)
1941年12月の真珠湾攻撃作戦において主力となった第1航空戦隊を形成した赤城と加賀はこうして生まれたのです
元が中速の戦艦である加賀は他の高速空母に追随できるか、元が巡洋戦艦だった赤城は速度には問題が無いものの航続力の面でハワイを往復できるかが懸念され作戦から外すべきではないかという声が上がっていたのです(赤城は艦内通路に重油のドラム缶を並べ満載して行った)
他にも5航戦の翔鶴・瑞鶴の航空隊の練度も問題視されて外されかけ(翔鶴・瑞鶴の竣工は真珠湾攻撃作戦のわずか4ヶ月前)、2航戦の蒼龍・飛龍も軍縮条約準拠の中型空母だった為航続力に不安があり・・・というかハワイ攻撃をゴリ押しする山本五十六聨合艦隊司令長官に「だから無理」と言う材料に使われたようです
戦前戦中にかけて日本海軍の象徴として国民から「長門と陸奥は日本の誇り」と親しまれた2隻の戦艦でしたが(大和型は徹底的な秘匿で自国民にすら存在を隠された)、真珠湾攻撃とマレー沖海戦で日本海軍自身が戦艦が時代遅れである事を証明してしまいます
その後のソロモン海の死闘でも同世代の金剛型4隻が「古いから沈んでもいいかw」とばかりに積極的に使われたのに対し、長門型は国民から親しまれた故に喪失した時のショックや開戦時でも未だに強力な戦力だった事から大和型同様に出し惜しみされ温存された為に有効活用する機を逸してしまいました
そんな中で1943年6月に陸奥が謎の爆発を起こして沈みます
結果論だけで言えばワシントン会議で陸奥を廃棄しておけば、彼女1隻で英米の戦艦5隻を沈めたのと同じ効果があったわけです
逆に言えば陸奥1隻で英米に戦艦5隻分の建造維持の負担を強要できたとも言えるわけですが、その経済的負担が痛かったのはむしろ日本の方だったので
長門は1944年10月に大和・武蔵・金剛・榛名らと共にフィリピンに上陸するマッカーサー指揮下の米陸軍部隊の殲滅に向かう捷一号作戦に参加します
これは本来主力であるべき空母機動部隊を囮に使って米空母部隊を釣り出し、その隙を狙って戦艦部隊を上陸地点に突入、艦砲射撃を以って上陸部隊をなぎ払うという壮大な作戦でした
実際に米空母部隊を率いたハルゼー提督は狙い通りに囮の日本空母部隊に食い付きレイテ湾沖から離れます
一か八かのギャンブル的要素の高い作戦が図に当たるかに見えた正にその瞬間、真の主力部隊を率いた栗田提督は『謎の転進』を図り引き返してしまいました
戦後まで生き延びた栗田健男はその理由について固く口を閉ざし語らなかった為、遂に真相は明らかにされませんでした(千載一遇のチャンスを自ら捨てた事よりも、怖気づいたにせよ別の理由があったにせよ、その経験を後身に活かそうとせず口をつぐんだ栗田のその姿勢こそ幾ら非難されても仕方ないでしょう)
最後の活躍の機会さえ失った長門はそのまま終戦の時を迎えました
米軍に接収された長門は翌1946年7月、原爆実験(クロスロード作戦)の標的艦として軽巡酒匂やドイツ重巡プリンツ・オイゲン、米軍の戦艦ネバダ、アーカンソー、ニューヨーク、ペンシルベニア、空母サラトガなどと共にマーシャル諸島、ビキニ環礁に沈みます
かつてのビッグセブンの僚友たちは全て解体されてしまっており、海底に沈むとはいえその姿を確認できるのは長門だけとなっています
虎は死して皮を残すと言いますが、長門は死して漁礁となり観光資源を残しました
陸奥は戦後に引き上げられて解体され貴重な資源として日本の復興にその身を捧げる事になるのですが、そちらだけで1章を割きたいのでまた別の機会に
( ・ω・) 「・・・参?」