海軍の休日 其の壱 金剛型戦艦 | Dream Box

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このブログの内容は5割の誤解と4割の勘違い、2割の嘘で成り立っています

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$LOVE≠MC^2「英国で産まれた帰国子女の金剛デース!ヨロシクオネガイシマース!」


















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$LOVE≠MC^2「金剛お姉さまの妹分、比叡です。経験を積んで、姉さまに少しでも近づきたいです」

上図では後方の第4主砲塔が無くなっているが、これはロンドン海軍軍縮条約による戦艦の保有枠削減と財政難により練習艦とされ船体後部の第4砲塔を撤去された為

その後昭和天皇の御召艦(観艦式などで陛下が座乗する船)として活用され、軍縮条約の期限切れとともに現役復帰する












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$LOVE≠MC^2「夜戦なの?腕が鳴るわね」        



















                              
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$LOVE≠MC^2「速度と火力…ふふっ、夜戦開始よ!」


















日本海軍は1895年の日清戦争にあたり清国水軍が持つ当時のアジア最強艦「定遠」「鎮遠」に対抗する為、フランスに軍艦を発注していました

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それがこの「松島」を始めとする「厳島」「橋立」の三景艦でした

当時の貧乏な日本がなけなしの予算から捻りだした物で、費用が掛けられなかったせいか或いはフランスなんかに発注してしまったせいか、小振りの船体に不釣り合いに大きな主砲が1門だけという異形の艦になってしまったのです

結局この主砲は役に立たなかったのですが、何とか黄海海戦に勝ち日清戦争の勝利に貢献します

これによる巨額の賠償金を得て、日本は1905年の日露戦争に来襲するバルチック艦隊を破る戦艦「三笠」を始めとする戦力を整えたのでした

日露戦争では日清戦争の時の様な賠償金を得られず、また日英のユダヤ資本から借りた巨額の戦費の負担も響いてきました(この時の国債の償還が終わったのは何と1980年代のこと)

しかも日露の講和を仲介したアメリカが意外な日本の勝利に驚き、太平洋の覇(と中国市場)を争そう“敵”として認識し米海軍の主力艦隊である『グレート・ホワイト・フリート』を世界1周航海の途中に日本に寄港させる示威行動を行います

さらに悪い事に日露戦争の直後、イギリスがそれまでの戦艦の定義を一変させるような新型戦艦『ドレッドノート』(1906年)を完成させると全世界に衝撃を与えます

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それまでの軍艦は口径や砲身長の異なる何種類かの大砲を雑多に配置し、それぞれの砲手の判断と能力にによってバラバラに砲撃を行っていたのですが、ドレッドノートは連装5基10門の主砲を統一してその威力や射程を揃えました

また各砲への連絡指揮を一元化して同一の目標を狙えるようにしたのです

現代の認識では当たり前の事だと思われるかもしれませんが、これをやり始めた最初の戦艦がドレッドノートだったのです

現在、スポーツ等で規格外の新人を「超ド級の才能」などと称することがありますが、その「ド」とはドレッドノートに由来します

ドレッドノートの出現はそれ以前の軍艦を一夜にして旧式化してしまいました

日本海軍も日露戦争後に建造中の新型艦である筑波型・伊吹型・薩摩型・河内型などが軒並み時代遅れになってしまい涙目状態

そこで新技術の習得を目的にイギリスに大型艦を発注する事にしました

これが『金剛』でした

イギリスは外国から発注された兵器で実験的な新機軸を試し、その成果を自国の兵器に盛り込むという性格の良い事をやっていました

金剛でも前後に2基ずつ背負い式に配置する主砲塔の具合が良かった事から、同時期に建造していた自国のライオン級巡洋戦艦の4番艦タイガーの設計を急遽改めたほどでした(ライオン級で船体中央に配置されていた3番砲塔を後部煙突の後ろに置き換え金剛型と同様にした)

この金剛の同型艦3隻は日本国内で建造され「比叡」「榛名」「霧島」(建造~進水~竣工は1911~13年にかけて)と名付けられます

装甲を犠牲にして速力を稼ぐ巡洋戦艦でありながら防御力はけして低くは無く、世界で初めて主砲に14インチ砲(36センチ)を装備した金剛級4隻は世界最強級と称しても言い過ぎではないほど強力な艦でした(最強でいられたのはごく短期間でしたが)

自分達で作っていながらイギリスも金剛を高く評価しており、日本に引き渡すのが惜しくなって「譲ってくんない?」と打診したほどでした

さらには日英同盟締結後に勃発した第1次世界大戦では、金剛級4隻の欧州派遣を要請したといわれています(さすがに断わりましたが)

もし派遣が実現していれば歴史に残る大海戦となった『ジュトランド沖海戦』での活躍もあったかもしれません

日本海軍は金剛を皮切りに1910年代を通じて超ド級戦艦扶桑型2隻、伊勢型2隻を相次いで建造してポストジュトランド時代の軍艦建造に自信をつけ『八八艦隊』の整備に入り、その端緒となる『長門』の建造に掛かるのでした

この辺の話は次回に譲ります

1910年代建造の金剛級4隻は改装を繰り返しながら1941年勃発の太平洋戦争で縦横無尽の活躍をします

30ノットの速力の使い勝手の良さと共に、艦齢30年にも達する老朽艦ゆえに損耗を許容され「いつ沈んでも構わない」とばかりに積極的に使い続けられました

逆に来るべき決戦に備えて温存された大和級などは、使い時を失い無益な特攻で徒花を散らす事になってしまいました

その結果、敵である米海軍からは「日本の戦艦で意義があったのは金剛級だけ」とまで言われています





( ・ω・) 「軍艦と萌っ子キャラの融合・・・」