ミハエル・コーガンという人物を知ってる方は多くないでしょう
現在ではゲーム・メーカーと知られるタイトーの創業者です
1970年代後半、「ブロックくずし」や「スペースインベーダー」を発表し大ブームを引き起こし、後のファミコンに繋がる日本のゲーム文化の端緒となった会社です(現在はスクエアエニックスの子会社になっています)
世界に冠たる日本のTVゲーム文化が(最近はやや低調気味ですが)外国人の会社から始まったというのも面白い縁だと思います
この人物がなぜ日本で会社を作ったのかを調べるとさらに面白い縁が分かるのです
ミハエル・コーガンは1920年に現在のウクライナのオデッサで生まれたユダヤ系ロシア人です
ロシアの共産革命による混乱を逃れて満州のハルピンに移住しました
彼が戦後に作った太東洋行という会社は「極東」の「猶太人(ユダヤ人)」からとった物で、これが後にタイトーになるわけです
つまり彼は白系ロシア人です
ロシアにとっての極東、シベリア地域は帝政時代から流刑地でありモスクワの統制の及びにくい土地でもありました
またロシアは満州との国境の地ビロビジャンにユダヤ自治区を設けていた事もあり、1932年に建国した満州国、そして清朝末期に列強にむしり取られた上海租界にかけてソ連や欧州の差別・迫害から逃れたユダヤ人が多く集まっていました
日本は第1次世界大戦の戦勝国として、有色人種国家初の列強国としてパリ講和会議に臨み、1919年に国際連盟規約に人種差別廃止条項を盛り込もうとしました
また日露戦争で要した戦費19億円の調達に発行する戦時国債のおよそ半分を引き受けたのがユダヤ財閥のロスチャイルド家だった事もあり、日本はユダヤに好意的であった事も影響し(というより欧米にあるユダヤ蔑視とは無縁だったという事)極東にユダヤ人の流入を半ば国策的に認めていたのでした
満州国を作った関東軍の中には、故国を失ったユダヤ人の国を満州国の自治区として“イスラエル”を作ることで対ロシアの防波堤にすると共に、欧米の(特にアメリカの)政財界に暗然たる影響力を持つユダヤを味方に付けようとする事で満州国の生存の担保としようという考えがあったようです
これは河豚計画と呼ばれ(一歩間違えば毒になるという意味での命名)、結局のところ日独伊三国同盟の樹立によりユダヤ廃斥を進めるナチスへの気兼ねから立ち消えとなっていくのですが、対米戦が不可避となっていく1930年代においては日本の生存を賭ける起死回生の秘策として大真面目に推進されていた計画でした
河豚計画の中心にいたのは陸軍大佐安江仙弘と海軍大佐犬塚惟重であり、コーガンは安江と親交がありました
安江は当初オカルト的なユダヤ陰謀論に触れその信者となり対ユダヤ研究に身を投じますが(日本に初めてユダヤ陰謀論を紹介したのは安江だったりします)、パレスチナ等に派遣されユダヤ民族の窮状を肌で知るにつれ陰謀論の誤りを悟り同情的になります
彼らの研究・活動が元となり1938年12月の近衛首相の五相会議(当時の日本における事実上の最高意思決定機関)で猶太人対策要綱が国策として決定されます(1941年日米開戦を以って廃止。但し同年10月に近衛は在外公館への訓令でユダヤ人へのビザ発給・通過への便宜を図る事などを禁止する通達[猶太避難民ノ入國ニ関スル件]も出している)
また1937年の第1回極東ユダヤ人大会の開催を安江と共に陸軍から支援した樋口季一郎少将(当時)は、翌年ナチスの迫害を逃れて極東に辿りついたユダヤ人達245人を独断で保護、満州国への受け入れや上海への移送に便宜をはかるオトポール事件を起こします(詳細は樋口のWiki内の同項で)(コーガンと安江・樋口らが知りあったのが1938年の第2回極東ユダヤ人大会)
この樋口中将は後に北海道に司令部を置く第5方面軍に異動しそこで終戦を迎えますが、そのおかげで終戦間際のソ連軍の樺太・千島列島侵略の矢面に立つ事になり占守島の戦いではソ連軍に痛撃を与えてその侵攻を遅滞させます
この人の活躍があればこそ、現在北海道はロシアに奪われないで済んでいるのです(ソ連軍自身がそれを認めている。但しその功績は実際に現地で戦い、降伏後は捕虜としてシベリアに抑留された兵士たちにこそ認められるべきではあります)
その為終戦後にソ連は樋口を戦犯として身柄の引き渡しを要求するのですが、先のユダヤ人擁護の事実があった事からユダヤ人社会が恩返しとばかりに樋口を守るロビー活動を展開し、マッカーサーにソ連の要求を拒否させることに成功します
一方で安江の最後は対称的なものとなります
東条英機との対立から予備役に編入され、終戦時には高級将校が特権を行使して優先的に帰国するなか、日本に惨状をもたらした自分のような軍人が多くの民間人を見捨てて逃げることを潔しとせずに大連でソ連軍に身柄を拘束され、1950年にハバロフスクの収容所で没したのでした
安江の死後、遺族は戦後の混乱のなかで困窮し葬儀も出せずにいた事に心を痛めたコーガンは、費用はユダヤ人社会で持つからと1954年に安江の葬儀を実現させます(遺族に生活の援助も申し出ますが、安江の行為を経済的な見返りと引き換えにしたと見られる事を嫌ったのか安江家は辞退します)
そこにはイスラエル公使やユダヤ人協会会長も出席し、ユダヤ人保護の尽力に感謝の念を捧げたのでした
日本人のユダヤ人保護というと「日本のシンドラー」と呼ばれた杉原千畝の事ばかりが思い出されますが、彼が欧州から送り出した命のビザを極東で引き受けた人々の尽力が無ければその努力も無駄になっていただろう事は疑いようがありません
またコーガンのような人物が日本に移住し、日本の文化に影響を与えるきっかけとなった人の『縁』についても興味は尽きません
日本の家電が世界を席巻するきっかけとなったトランジスタや、一眼レフカメラの35mmフィルム規格の採用にもユダヤ人の協力があったとも言われているそうです
明日、2月5日はミハイル・コーガンの命日という事もあり、彼にかこつけて安江仙弘や樋口季一郎の事を知って貰いたくこのネタを書き上げたのでした
ちなみに杉原千畝については半年くらい前から書き掛けてるネタがあり、近々発表できたらと思っている次第です
( ・ω・) 「歴史というのはつくづく人間のドラマなのだと思います」