その1 2000年8月 の恩人たち
その2 2000年8月 の恩人たち 高知県三原村にて
その3 2000年8月 の恩人たち 三坂峠の長五郎さん

四国八十八か所の霊場を逆打ちであるので、愛媛最後の札所である観自在寺を後にすると県境を越えて高知初めの札所が宿毛市にある延光寺である。県境を越えたのは午前中であったのは覚えている。
延光寺近くに「へんくつや」という宿があるので機会があれば泊まるといいと、途中で会ったお遍路さんに聞いていたが、延光寺にはお昼前には着いた。四国は地図を見ると右と左が下に突き出ているところがある。左が足摺岬、右が室戸岬であるが、次の札所は足摺岬の先端付近にある金剛福寺である。延光寺からは50kmを超える。ルートは足摺岬の左から、右から回れるが、歩く者にとっては距離が短い方がありがたい。この頃にはおそらく600kmくらいは歩いて進んでいるので、坂道もそこまで苦ではなくなっていたので、三原村を突っ切って土佐清水市に抜けるルートを考えていたのだが、宿が心配であった。昼食を採ったお店でタウンページを見て、三原村に宿があるのは確認し、その場で電話したが出ない。留守電話入れたが、おそらく「満室です」ということはないだろうと思い、へんくつやは名残惜しかったが道を進めることにした。
坂を上っていくと確か右側にダムがあり、その周辺で祭りのようなものをやっていたようで、車がたくさん停まっていた。宿の方もがおそらくそれに出ていて留守番もいなかったのだろうな、と思い、更に登っていく。田舎道で狭いかと思ったら交通量は少ないものの結構きれいだった。少し街並みらしいところがあり、確か信号のある交差点辺りだったろうか、私を追い抜いて行った軽トラ(軽バンだったかも)が私の少し前に停車した。何らかのお接待?荷物増えるとつらいなあ、と思っていたら「今夜泊まっていって この先、道沿いに 神社あるけど、その先」とか。「来てなー 待ってるからなー」と走り去っていった。
そこは先ほど電話した宿屋よりも更に奥であった。しばらく歩くと宿があり、留守電を入れた手前お断りしようとしたら、まだ留守であった。やむなく、玄関扉にメモ書きを入れて先を進むことにした。
声を掛けられてから1時間くらいだろうか。鳥居のある社が見えてきたので、これの少し先だろう。と少し歩くと道路に出て先ほどの方が待っていた。正直、ホッとした。
早速家に案内して下さり、風呂入る際に洗濯するものを出しなさい、と奥様に促されるまま風呂に入った。さっぱりして出てくると晩御飯が用意されていて、旦那さんと一緒に話をしながら摂ることになった。土間にテーブルを出している感じでちょっとした居酒屋気分。壁には以前泊めたお遍路さんのお札と礼状が貼られていた。結構話される方で楽しく伺った。昔はイノシシを飼ってて大阪に卸したりしてたけど全部病気でやられた、今は鶏だったか?を卸している、娘が結婚して近所に住んでいる、などなど、書けないこともいろいろと・・。基本、禁酒で歩いていたのだが久々にビールも頂いた覚えもある。
家の離れのようで、与えられた和室に布団が敷いてあり、すぐ縁側があり、縁側からはお遍路中なかなか見上げることもなかった空に満天の星が見えたのは感動的ですらあった。
翌日、洗濯物を受け取り、お礼を申し上げ失礼して、いざ金剛福寺へと進んでいった。

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恩が返せていないので、2012年に家族旅行で鳥取に向かったついでに三原村まで足を延ばすことにした。
記憶をたどりながら向かう。村の中心部を抜け、目印の神社の少し先、だが、じきに村の外れまで来てしまう。3度ほどうろうろしたが分からない。近所の人に尋ね苗字と昔こういうご縁でお世話になって云々お伝えしたら教えてくれた。
お久しぶりにお会いした方はお元気には暮らしていてたようだが、家の中は以前とは違っており、お遍路さんを泊められるような状態ではなかった。おそらく奥さんが亡くなっていらっしゃるのではと推察した。
しきりに「憶えていてくれてありがとう」と仰っていた。また、ビールを箱でお持ちしたのと近所にお孫さんもいるだろうと思いお菓子をお持ちしたが、逆に「軍鶏の卵」を頂いた。「天然のはちみつ」は容れ物がなかったのでご辞退したが、いつまでも人に親切な方なんだと思った。こちらがお世話になったのでお礼に訪れたのだが、まだ礼を返し切れていない気がしている。