職業としての政治 (岩波文庫)
マックス・ヴェーバー (著),脇 圭平 (翻訳)
ここ数日、この古典中の古典といえるヴェーバーの
『職業としての政治』を読み返している。
ここに書評を記するつもりはなかったが、本日の朝
日本経済新聞の一面で、本書のハイライトでもあり
有名な一説が紹介されていたのである。
政治とは、情熱と判断力の
二つを駆使しながら、
堅い板に力をこめて
じわっじわっと穴を
くり貫いていく作業である。
本書は1919年『職業としての学問』と同じく
ミュンヘンでの講演の口述記録である。
この『職業としての政治』は、読むたびに新たな
気付きがある。
ヴェーバーは、政治家に必要な資質は
情熱、責任感、判断力の3つとしている。
ヴェーバーがいうここでの情熱とは、
「事柄(仕事・対象・問題・現実)」への情熱的献身
であって、精神態度ではない。
少しだけ引用してみよう。
情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力――これは政治家の決定的な心理的資質である――が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。
(省略)
ところが権力追求がひたすら「仕事」に仕えるのではなく、本筋から外れて、純個人的な自己陶酔の対象となる時、この職業の神聖な精神に対する冒瀆が始まる。政治の領域における大罪は結局のところ、仕事の本筋に即しない態度と、もう一つ――それといつも同一ではないが、しばしば重なって現れる――無責任な態度の二種類にしぼられるからである。
(省略)
本物の権力の代わりに権力の派手な外観を求め、またその態度が無責任だから、内容的な目的をなに一つ持たず、ただ権力のために権力を享受することになりやすい。
とある・・・。
この古典中の古典『職業としての政治』は、
政治家のみならず、現代に生きる大人たちの武装
として、しっかりと読んでおきたい。
巻末の言葉より
人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことも貫徹もできないだろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が――自分の立場からみて――どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。
晩安
