【今週のワンポイント-47】ある将軍・ある鎌倉殿 | 人生竪堀

人生竪堀

TEAMナワバリングの不活発日誌

 今回の解説ポイントは、政子の「尼将軍」。

 一般に政子は「尼将軍」と称されているが、これは「人呼んで尼将軍」みたいな話で、実際に当時そう名乗っていたわけではない。そもそも、征夷大将軍は朝廷が任ずる武官だから、尼の政子が任官するはずはない。ま、黄門様を「天下の副将軍」と称するようなものですな(徳川幕府の職制に「副将軍」なんてポストはない)。

 『吾妻鏡』を見てみると、政子の表記は「御台所」、頼朝が死んで落飾してからは「尼御台所」が基本。実朝暗殺にいたるシビアな展開の中で、ドラマでは省略されてしまったが、建保6年の12月、実朝の右大臣任官とほぼ同時に、政子は従二位に叙せられている。『吾妻鏡』の記載も、これ以降は「二位家」「二品(二位の意)」「二品禅定」となり、「尼将軍」などという表記はない。

 では、なぜ世上「尼将軍」と呼ばれるに至ったのだろうか。

 まず、実朝が横死したことによって、鎌倉殿が空位となった。これは、幕府にとっては都合の悪い事態だ。ほどなく、京の九条家から三寅が下向してくるとはいえ、ばぶばぶである。

 そこで、政子が鎌倉殿を代行することとなった。この解説でも何度か述べてきたように、もともと鎌倉殿の立場と征夷大将軍はイコールではない。したがって、朝廷が政子に何の官職を与えなくても、御家人たちが認めれば政子は鎌倉殿たりうるのだ。

 そして、政子には鎌倉殿たる資格が充分に備わっていた。創業者である頼朝の妻にして、頼家・実朝の母であることも大切だが、もっと重要なポイントがある。「従二位」という位階を得ていたことだ。従五位がせいぜいの一般御家人からしたら、従二位は雲の上の存在である。それだけではない。

 この時代の体制では、三位以上の位階をもっている者が、国家の支配階級を形成する。具体的には、知行国主や荘園領主といった利権を保持できるわけだ。頼朝が遺した知行国主や荘園領主といった莫大な利権は、鎌倉にとって大切な資産である。頼家や若いときの実朝が、三位未満の位しかなくても、これらの資産を受け継ぐことができたのは、三位昇進確定者と見なされていたからだ。

 その頼家も実朝もいなくなって、後継の三寅はまだ幼な児。三寅も摂関家の生まれだから家格は充分とはいえ、三位まで昇るのはずいぶん先になる。だとしたら、鎌倉殿の膨大な資産群を正当に継承できるのは、政子しかいない。三寅の後見という名目で、政子が事実上の鎌倉殿になりえたのには、こんな事情があったのだ。

 年表や教科書の上では、鎌倉幕府の第4代将軍は三寅=九条頼経となっている。でも、鎌倉殿の第4代は、本当は政子だったのである。ま、「尼倉殿」ってところかな?

 

(西股総生)

 

《ワンポイントイラスト》

 

 

政子>>>>>>>>(越えられない壁)義時

二番手であればこそ輝く義時!

 

(みかめゆきよみ)