【縄張りコラム】書ききれなかった話・前編 | 人生竪堀

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TEAMナワバリングの不活発日誌

 

 『杉山城の時代』が発売されて、半年以上が過ぎた。お陰様で売れ行きは悪くないのだが、僕としては内容に完全に満足しているわけではない。本文の最後の方、P268に書いた通り、咀嚼できていない論点や積み残した課題はたくさんあって、「杉山城問題」をめぐるいくつかの重要な言説についても論及できていない。

 具体的に言うなら、齋藤慎一氏・竹井英文氏らの論点を結果として十全に整理できなかった。また、北条氏がなぜ杉山城を必要としたのか、についても説明ができていない。つまりこの本では、発掘資料や指摘された史料が、年代を特定する決定打にはなりえないことを指摘して、北条氏築城説が成立する余地がある、と論じたにとどまっているのだ。

 なので、読者の中にも、こうした点を不満に感じた方がいるのだろうと思う。いや実際、松岡進氏や竹井英文氏から、論点の整理不足や踏み込み不足を具体的に指摘した、お叱りのお手紙を頂戴している。

 『杉山城の時代』にそのような限界があることは、著者である僕自身も執筆中から認識していた。なので、松岡・竹井両氏からのお手紙を読んで、「やっぱり来たか」と思ったものだ。両氏とも、指摘している問題点は、面白いほど一致していたからである。ただ、松岡氏や竹井氏にいかにも指摘されそうな限界を認識しながら、『杉山城の時代』をあの形にまとめたのには、僕なりの理由がある(以下、言い訳です)。

 

 まず、「杉山城問題」とは何なのかを、できるだけ多くの人に知ってもらいたい、というのが今回の執筆動機だったこと。この場合、「できるだけ多くの人」とは、研究者や専攻生だけではなく、一般のお城ファン・歴史ファンなども含む。だからこそ、論文や研究書ではなく選書というパッケージを選択しているのだ。

 そして、そのためには、本を手頃なボリュームと価格に収める必要がある。もし、自分の研究成果や主張を好きなだけ書きたいのであれば、論文か研究書としてまとめればよい。選書や新書としてまとめるという行為は、自分の主張を「できるだけ多くの人」に伝えるための行為であって、そのためには版元さんの採算が合うような〝商品〟として成立させる必要がある、というのが僕の信条だ。

 自分は書きたいだけ書いて、本(=商品)として採算が合おうが合うまいが出版社の勝手だ、と言い放てば、研究者らしいストイックさを気取ることができてカッコイイかもしれない。でも、それでは言論人として無責任ではないか。皆がそんな書き方をしていたら、出版文化は滅んでしまう。なので、『杉山城の時代』の本文282ページ、定価1700円というのは、僕としてはかなりイイ線に収められたと思っている。(続く)

 

西股総生