【今回のワンポイント解説】(真田丸:9月18日放送分) | 人生竪堀

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TEAMナワバリングの不活発日誌

 武士とは、武=戦いや殺生をなりわいとする職能戦士。また、主君に仕える(さぶらう)身分であることから、侍ともいう。その武士たちが、親分(主君・武家の棟梁)のもとに結集して作り上げる支配組織が武家政権。したがって武家政権は、軍事政権という性格をもっており、主君は軍団の司令官でもある。
 武士たちは、主君の命令にしたがって戦争に行き、敵を倒す。主君は、倒した敵から奪い取った土地や財産を、子分である武士たちに、手柄に応じて分け与える。恩賞だ。この基本的な原理は、鎌倉幕府も室町幕府も、戦国大名も徳川幕府も、全部同じである。北条家を倒した豊臣秀吉が、北条家から取りあげた領地を徳川家康に与えたのも、この原理にのっとったものだ。

 さて、関ヶ原合戦は、豊臣対徳川の戦いでは決してなかった。参加した武将たちはみな、豊臣政権内部での主導権争いのつもりだった。しかし結果として、この戦いを境として家康は圧倒的な権力を持つようになり、豊臣家は没落への道を歩む。なぜだろう。
 まず、負けた西軍諸将から領地を没収し、手柄のあった者に分配する仕事は、家康が担当することになる。勝利した東軍の司令官だったからだ。しかも、五大老のうち西軍の首謀者格だった宇喜多秀家は事実上、滅亡。毛利輝元と上杉景勝も敵対的立場を取ったために、大幅減封。この結果、家康に単独で敵対できる勢力はいなくなった。
 こうして家康は、圧倒的な武力で他の大名たちの上に立つこととなった。大名たちは、家康に逆らうつもりがないことを示すため、江戸に人質として、妻子を置くようになる。これは、かぎりなく武家の棟梁に近い立場だ。しかも、人口が急増した江戸では消費や流通の規模も拡大するから、全国的な経済都市に成長してゆく。
 ただし、もともとの公儀(中央政権)だった豊臣家は存続しているし、大坂・京都は相変わらず日本経済の中枢である。つまり、関ヶ原合戦の日本には、江戸と大坂という二つの焦点があったことになる。そして、軍事では江戸が、経済では大坂が優越し、政治はきわどい均衡を保っている、という状況がから大坂の陣まで続くことになる。

(西股総生)

《ワンポイントイラスト》



 改名して画数が減った信之。信繁も少ない画数に改名しちゃう?幸村なら15画だぞ!

(みかめゆきよみ)

☆お知らせ☆

◎こんなお兄ちゃんだからこそ、本当はこうしたかった…

12月23日(金)のトークイベント
「信繁と幸村の2016年をふり返る」
第2次上田合戦や大坂の陣のほか、幻に終わった信幸による伏見城改修プランや、昌幸の野心満載だった木幡山出丸計画などについても、楽しくお話しする予定。
場所 : 新宿クラブツーリズム(新宿アイランドウィングビル)
第1部【 コース番号=C2021−098】入場料 1,000 円
第2部【 コース番号=C2022−098】入場料 500 円