長いのですが、最近のコメントのやり取り良かったら読んでみてください。何か気付きが得られる人が人がいたなら嬉しいですグッド!照れキラキラ

 

アセンション症状さんより

最近になって、読ませていただいている者です。
とても有益な情報を発信いただき、ありがとうございます。

もし気が向いたらで結構ですので、ご存じでしたら教えていただきたいのですが、
アセンション症状というものは、いったいいつ頃まで続く見込みなのでしょうか。
私自身、先月からかなりの眠気とだるさ、やる気の減退や体調不良で、やりたいことが十分にできず、伸ばしたいスキルの成長が鈍っていることへのイライラが続いております。
私は未熟なところも多く、アセンションの見込みがない可能性も大きいので、アセンション症状でなく単なる体調不良なのかもしれませんが…。
仮にアセンション症状だとした場合、いつまでこの状態が続くのかが分かれば、希望が見えそうと思い、思い切って質問させていただきました(とはいえ、さすがに年単位で続くとなると、やはり辛いですが…)。

 

ティジャスより
コメントありがとうございます。
やる気とか、集中力とか、本当に低くなります。
書かれている通り、自分を自分の思う通りに動かせなくなるので、イライラしたり、悲観的になったりして、絶望的な感じになることもあります。

何年続くか?私は10年くらい続いていて、最近はありがたいなぁっと思うことも多々あったり、もちろん真っ最中は痛かったり、苦しかったりするので喜べはしないけど、でも、少しずつではあるけど変化も実感しているので

その多くは精神面かな?物質社会で良いとされていたものに振り回されなくなってきています。ここは必須なのかな?物質的な側面に価値を見出すのではなく、非物質的な部分

分かりやすく言うと、ミニマリストというものがもてはやされるのは正にそれで、シンプルな空間に価値を見出したり、物がないことで時間的なゆとりがあったり、ものではない部分にある価値に価値を感じるようになる。

人で言えば地位や名誉、肩書、などでなくその人の人柄とか、個性とか?感覚、花を見てもみんな違う感覚を持つ、そうした違いに価値を見出すようになってくるのかな?

テレビはあちら側の道具だから、そうした所をフォーカスせず、肩書や地位や名誉にばかり光を当ててそれを追い求めさせるけど、これからはそうじゃない部分の価値に価値が見いだされるようになってくると思います。

上手く伝えられなくてすみません。
こんど時間のある時に記事にしますね。

 


アセンション症状さんより
お返事いただきありがとうございます。
分かりやすく書いていただき、いまの私に響くことが多くて、大変ありがたいです。

変化といえば、私の場合、確かに20代の頃と比べて、地位や名誉、肩書がほしいという気持ちがなくなったと思います。といっても、高潔な理由ではありませんで、「地位や名誉や肩書が付くとやる事が多くなりそうで嫌だなあ」とか、「人付き合いが増えて自由な時間が少なくなるのは、自分にとって幸せではないなあ…」という、力の抜けたような理由です。

今は、絵を描くことを趣味としていて、そちらに情熱を傾けていきたいと思っているのですが、最近はものすごい倦怠感で手を動かすのもだるく感じる日があり、ほとんど描けていません。かろうじて仕事(絵と関係ない業種です)をなんとかやっている状態です。


「絵を描くことを手放す」必要があるのかと考え…たくもないですが、そうだとすると、情熱を失った自分が抜け殻になりそうな気がして、悲しいです。
元気になれるときがくればいいなあ…と、希望をもつことにします。

長々と申し訳ありませんでした。
記事を楽しみにしております。

 

ティジャスより

力の抜けたような理由です。←まさにこれです(笑)だからこれで良いのか?って信じられないというか?自分を疑うというか?

絵を描くことを手放すではなく、絵を描ける環境を整える
こっちなんだと思います。

今すぐは無理でも、いずれそうなるようになると思います。
やりたいことがあるのはとてもラッキーです!

05月17日 01:48

 

 

アセンション症状さんより

お返事ありがとうございます。

ストンと腑に落ちて、救われた気分です。

今は、肉体、精神ともに環境を整えているところなんだと考えて、ゆっくり過ごします。整ったら、きっとまた絵を描けるときが来ると信じられそうです。やりたいことがあって、本当によかったです。

 

ティジャスより

ゆっくり長い目で見られると良いと思います^^

 

アセンション症状さんより

>世間と比べて優秀な自分というものを昭和の子供たちは追い求めるように育てられてきました。そして、そんな自分しか愛せなくなっています。

これは、頷けました。自分の中のモヤモヤが言語化できた気がします。ありがとうございます。

私も昭和の子供だったので、テストの点数や、スポーツ、喧嘩まで、とにかく勝つことや、リーダーになったり中心人物になったりすることを追い求めるように育てられた気がします。病弱だったので、スポーツとかリーダーとかは、なかなか親の期待に沿えなかったですが。。

いまでもかなり、自分を愛する判断基準の中に「社会の基準」が住み着いているのを感じます。気が付くと他人と比較したり、劣等感を抱いたり、自分を裁いたりしています。そろそろ疲れてきたので、脱却したいところです。

自分の本当に愛すべきところって、記事にあるような、本質的な部分ですよね。納得します。だって、「努力したらなれる(かもしれない)、今の自分でない何かすごいもの」というのは、自分の本質ではないわけですから。
自分の本質は、たぶんどんな状態であっても、自分自身と分かちがたく存在するもので、それを愛することこそが、自分を本当に愛することになるんだろうなあ、と、記事を読んで思いました。

 

 

ティジャスより

私が記事の中で文章にしていなかった部分が全部言語化されている^^

本質の部分って、見つめられることってあまりないですよね。
でも、子どもの時って、親から色々と矯正される前だと、素直に声にしたり、体を使って表現しているんですよね。

でも、そんなつまらないこと「しないの」「言わないの」って【つまらない】モノ扱いされて、その内に表に出すと傷つけられるからと隠すようになって、いつしか忘れてしまうんですよね。

本当はそれこそが【価値】のある特別な物なのにね^^

今日も愛を発して生きて行こう💖

ここのやり取り、こんど記事にしても良いですか?

 

 

アセンション症状さんより

お返事いただき、ありがとうございます。

>本当はそれこそが【価値】のある特別な物なのにね^^

そう思いました。
社会の基準では、今が資本主義の世の中だからかもしれませんが、お金を稼ぐことができる特技に重きを置かれているのかもしれません(資本主義よりも前の世の中では、血統とか、それがなければ丈夫で強い体が価値だったのかもしれませんが)。ただ、社会の基準は、個人的には、何かに駆り立てられるような感じがして辛いですね。。

>ここのやり取り、こんど記事にしても良いですか?

はい。私のコメントがちょっと恥ずかしい気もしますが(^^;)、大丈夫です。

 

ティジャスより

確かに、その時、その時、社会に必要な技能を持っている人が歓迎されるのは、悪いことではなくて、最もなことなんでしようね。

でも、今って、そこに何かしらの意図が隠れていて、まさに駆り立てられている。そこにしんどさや虚しさが漂っている。そんな感じかな?

記事にすること承諾いただきありがとうございます。

 

 

 

◆ということでこのように記事にさせて頂きました。
最後までお読みくださりありがとうございます。

 

本日も素晴らしい夕暮れ&夜をお楽しみください。