1945.3.10
東京大空襲から62年が経ちました。
父親の実家は永代橋からほど近い、
日本橋箱崎町です。
もちろん、家も周辺もほとんど焼けてしまったのです。
父は木更津に“学童疎開”をしていたのですが、
東京湾の向こうにある東京が真っ赤に燃えて、
次の日には、木更津の海は灰で真っ黒だったと教えてくれました。
疎開の直前にも空襲があり、雨のような音を立てて焼夷弾が落ちて、
逃げ込んだ建物の中で、ぶるぶる震えていたことも話してくれました。
祖父は隅田川を流れてくる廃材木を拾い、
家を再建したそうです。
小学校でも空襲の話を聞きました。(通ったのは江東区内の小学校です。)
江東区は水路が多く、沢山の人が水を求めて、
運河に飛び込んで亡くなったそうです。
小学校の時に運河で遊ぶ事は禁止されていましたが、
ここで沢山の人が亡くなったということを聞かされてからは、
本当に怖かったと思いました。
今では、運河もほとんど埋められ、公園や遊歩道になっています。
まだ、家の回りには少し運河が残っています。
風景が変わって、過去の記憶を消してしまいます。
そして人々の記憶からも消えていきます。
でも、忘れてはいけないことが沢山あります。
戦争の記憶を消してはなりません。
記憶が忘れ去られたとき、再び、悲劇が繰り返されそうだからです。
父親の実家は永代橋からほど近い、
日本橋箱崎町です。
もちろん、家も周辺もほとんど焼けてしまったのです。
父は木更津に“学童疎開”をしていたのですが、
東京湾の向こうにある東京が真っ赤に燃えて、
次の日には、木更津の海は灰で真っ黒だったと教えてくれました。
疎開の直前にも空襲があり、雨のような音を立てて焼夷弾が落ちて、
逃げ込んだ建物の中で、ぶるぶる震えていたことも話してくれました。
祖父は隅田川を流れてくる廃材木を拾い、
家を再建したそうです。
小学校でも空襲の話を聞きました。(通ったのは江東区内の小学校です。)
江東区は水路が多く、沢山の人が水を求めて、
運河に飛び込んで亡くなったそうです。
小学校の時に運河で遊ぶ事は禁止されていましたが、
ここで沢山の人が亡くなったということを聞かされてからは、
本当に怖かったと思いました。
今では、運河もほとんど埋められ、公園や遊歩道になっています。
まだ、家の回りには少し運河が残っています。
風景が変わって、過去の記憶を消してしまいます。
そして人々の記憶からも消えていきます。
でも、忘れてはいけないことが沢山あります。
戦争の記憶を消してはなりません。
記憶が忘れ去られたとき、再び、悲劇が繰り返されそうだからです。