2009/10/17

10年も前だなんて信じられないよ。

あの日から私はずっと、救われ続けています。

amber grisを作ってくれて、音楽を作ってくれて、夢みたいな時間を与えてくれて、本当にありがとう。

大好きです。

ファッションに拘りのある人は、自ずと自分に似合うものを知っている──少なくとも私の周りは。
でもそれって、「似合っていたから着ている」というより「着ていくうちに似合っていった」の方が近いのではないかと思う。

例えばロリータファッション。
着たくて着たくて、一生懸命お金を貯めて全身をバッチリキメて街に出た日。
少しドキドキしたけれど、そのドキドキは嬉しさと興奮が大部分を占めていた気がする。
鏡を見て、「よし、似合ってるから!」と気合を入れれば自然と服はその人に引き寄せられていく気がする。

要は根拠の無い自信。
どんなファッションを着る時も、これが大切なのかなと思います。
「私はこれが好き!」と着続けていたら周りも"そういう人"と認めてくれる気がするのです。
勿論、着こなすための努力は必要だしどうしても似合わないものもあるけれど。

それでも心から着たいと思った服は、気合いでなんとかなる!と思っています。
そうして自分の好き!を知っていくと、似合わない服には自ずと惹かれることもなくなっていくのだと。

因みにうちの母親は50を過ぎてからリンネル系のお洋服に目覚め、中々個性的な装いの日も多数です。
昔のコンサバな出で立ちも嫌いではなかったけれど、好きなものを見つけた母は今、とてもお洒落を楽しんでいます。
ファーストインプレッションだとか、最初に感じたことってすごく大切だ。
少なくとも私は大切にしたいと思っている。

昨日、初めて生のWABARAに触れた。
WABARAについてはTwitterで「乙女屋 WABARA(和ばら)」等で検索して頂けると、店主さんがとても愛ある説明をして下さっています。

乙女屋さん自体本当に素敵なお店で、WABARAがこんもりと存在している空間はお互いの良さを引き立て合っていてすいよせられるに充分な空気だった。

幾種類かを悩んで選び、ハトロン紙でブーケにしてもらう。
それを、抱えて帰る。
もうそれだけで非日常で気持ちはお嬢さん。

家へ帰り、花器に生ける。
満足に目は思わず弧を描いてしまう。

けれどWABARAの魅力は翌日が本番だった。

朝、眠りから引っ張りあげられてふと目をやる。
そこには、昨日生けたてのWABARAがふんわりと存在している。
この瞬間、私は朝だというのにまるでホットミルクを飲んでいるかのような気分になった。
ふんわりと、やわらかく、フランネルの手触りのような朝の空気。
こんな朝は初めてだった。
こんなに花が支配している朝も初めてだった。
しあわせだった。

今も目の前に幾種類かのWABARAがそれぞれに部屋の空気をやわらかくしている。
穏やかでやわらかく、目が合った時にだけ密やかに華々しさを傾けてくる。

しあわせのかたちや大きさと云うものは一つ一つ違うものだ。
その中で、初めて出会った小さくも胸にささる見た事のないしあわせのかたち。
これが私のWABARAに対しての初めての印象。
この気持ちを記せて良かった。

さて、それではこの小さくも贅沢な空間を存分に慈しむことにしましょうか。



お洋服が好きな私は最近、よく思う。
「私はどんな大人の女性になれるのだろう」と。
勿論中身伴っての大人の女性、ですがファッション的なこともとても大切。

ずっとロリータファッションだったのが、最近はガーリー古着になりパンツスタイルも着るようになった。
ロリータファッションは高校生から着尽くしたので未練はないです(勿論着る時はまだ着るけれど笑)。
何事もやり切るって大切。
そして着道楽な私の次なる興味はヴィンテージ。
古着にヴィンテージのアクセ、ヴィンテージハット…派手好きなのは変わらないのね笑。

そして歳上の女性たちを見ていて思う。
例えばおしゃれ番長野宮真貴さん。
透明感の素敵な原田知世さん。
最終目標か!?黒柳徹子さん。
どの女性も自分のスタイルを貫いていて、それでいてしなやか。
こんな女性の中身にも外見にも憧れます。

私が幸運だなと思うのは、有名人以外に周りにも素敵な生き方で素敵な服装をしている女性が沢山いること。
人生の先輩として、これからも学ばせてもらうつもりです✨

日本人は青が好き、とよく言われる。
青、蒼、碧…漢字だけでもこれ程までに印象の違う文字があり、昔からあおは特別な色だったのだろうと推測する。
なぜ、多くの日本人は青が好きなのだろう?

綺麗な青
はっとする青
落ち着く青…

これらに出会った時、私はほかの色とは根本的に違う気持ちになる。
何というか、心が強烈に惹かれるとでも云うのか。
そしてとても懐かしい気持ちになる。

きっと色々理由があったり、科学的に証明されたりしているのだろう。
けれどそれよりも、私はひとつでも好きな青の欠片を集めることの方が大事だ。
もし今までに集めた青が、標本にできるとしたら何としてでもしたい位に。
大森靖子の「新宿」を聴いていたら、歌舞伎町のドトールコーヒーを思い出した。
そこはビルで、ドトールは3階くらいまであって、私はいつも3階くらいの街が見下ろせる場所が好きだ。
夜バスで新宿に着いてメイクをして、荷物をロッカーに放りこんだらドトールコーヒー新宿歌舞伎町店(おそらく)まで歩く。
アイスティー¥290を頼んで、シロップをくるくると混ぜながら窓の外を(いや下を)ぼおっと見る。
これが私の東京遠征での1日の始まり。

向かいには確かヤマダ電機のビルがあって、スクリーンには何か音楽の宣伝が流れていて、そして横断歩道を人々が歩いてゆく。
それをただ眺めてるのが好きだ。好きだった。
多分今でも好きだ。

窓の外を見ながら新宿って街はいいなと思う。
日本一雑踏に紛れられるしライブハウスがあるしホストは道を教えてくれた。
吐いて倒れてるサラリーマンにお水をあげたら¥100くれたので、10m先のコンビニでいろはすを買った。
紀伊國屋書店のビルに入っている鉱物屋さんには色々な石が置いてあって、伊勢丹がある。

人がいっぱいいっぱいゴミのようにいて、他人みたいなフリしてるのに話しかけると意外と親切だったり。
汚くて、それが全部を包んでくれるぽっかりした優しさとか支えあってるみたいなのを感じる。
だから、私、私も新宿が好き。
どうしても抗えないことに対して、私はどう向き合えば良いのかな。
「それ」を「その時」を考えると、私の足元はぐらぐらとしてあっという間に崩壊してしまう。
なんて弱い心なのだろう、と自分で呆れてしまう。
なんて依存心の強い人間なのだろう、とほとほと愛想がつきてしまう。

誰か、を。たった1人、を。
精神的支柱にしてはいけない。
人は神様ではないのだから。

出口とか解決方法とか、きっとそんなものはないのだろう。
できるのは、ものの見方を変えてみること。
きっと今自分にできることはそれだけじゃないのかな。

力を抜いて、息をゆっくりと吸って、あの時の気持ちをゆっくり観察してみよう。

家にいる時は大概音楽をかけています。
音楽自体が好きと云うのもあるし、音がある方が作業が捗ると云うこともあり1日中かけっぱなしということもしばしば。
けれどこの季節、窓を開けていると心地の良い風が入ってくる季節。
夜の気配を存分に感じながら、無音で過ごすことの心地良さもまた良いものだと気づきました。

そうやって軽く読書をしたり、画集を捲ってみたり、物思いに耽る。
そんなことを最近、とんと忘れていたなぁとなんだか懐かしい思いに駆られるのでした。

今日は少し肌寒いので、紅茶の美味しい夜でした。
うにょうにょとした、とてもはっきりしない気持ち。
近くの小学校からお昼の放送、こどもの声、そしてモーツァルト。
モーツァルトなんて、小学生は聴きたくないだろうに。

5月は少し特別な日と、とてもとても特別な日がある。
忘れない、忘れない、忘れない日。

ありがとうとか、大好きとか、いっぱいいっぱい伝えたいけれど
今の私はとても怠いので、もう少し眠りの海に沈むことにします。