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ミュンヘンはエリザベートの生家がある街。彼女が産声を上げた家は現在「バイエルン共和国中央銀行」になっています。壁には若きエリザベートのレリーフと共に「ここに、オーストリア皇后、ハンガリー王妃になった”SISSY”が1837年に生まれた」と書かれています。ヴィクトリア朝の始まりの年に彼女が生まれたなんて素敵な偶然キラキラキラキラキラキラ

 

エリザベートの母ルドヴィカは、ヴィテルスバッハ家バイエルン国王の腹違いの妹。父マクシミリアンもヴィテルスバッハ家の分家出身でした。家柄では言えば母親の方が各上↑↑ 後のハプスブルク家フランツヨーゼフ皇帝との結婚も、母ルドヴィカの姉ゾフィがフランツの母であったことに由来します。

 

 

ルドヴィカとゾフィの父、エリザベートのお爺さまは、なかなか世渡り上手な人物であせるあせる この時代、ナポレオンに取り入り、バイエルンは、王国に昇格、2人の父も、マクシミリアンⅠ世として即位したのです。

 

ゾフィをハプスブルク家に嫁がせる一方、他の娘をナポレオンの最初の妃ジョゼフィーヌの連れ子ウジェーヌに嫁がせるなど、ある意味八方美人的な政治外交をとり・・・。他の娘も、ザクセン王妃、プロセイン王妃になり・・・。王妃や皇后という立場にならなかったのはエリザベートの母ルドヴィカだけだったんですよー汗汗 ヴィッテルスバッハ家は宗教革命の中で、カトリック信仰を守った家だったので、お嫁さんのもらい手はたくさんあったのです。

 

そして2人の腹違いの兄は、ルードヴィヒⅠ世(エリザベートには伯父ですね)としてその後を継ぎます。ハプスブルクには負けますが、名門のお家キラキラキラキラキラキラ

 

 

ルードヴィヒⅠ世は、ネオクラシカル様式を愛し、科学や医学の発展を目指し、ミュンヘンに大学や図書館、アカデミーを創設します。そしてローマ、ギリシャの古典芸術を反映した建築物を領地に次から次へと建造し、ミュンヘンを「イザール河畔のアテネ」を呼ばれるまでに発展させます

 
彼、「名作は万人の目にさらされるべき」と、かなり先進的な考えでヴィッテルスバッハ家所蔵の名画を集めた美術館を開設、一般に開放したんですよ。まさにネオクラシカル的な考えですよね。下の写真は国立歌劇場、もちろん市民のための建物です。

 


ただ彼の困ったところは、とにかく女性が大好きで(^_^;) 愛人問題が絶えず・・・最後には自称スペイン人の踊り子に多額のお金を投資し、国家財危機にした罪で、生前退位させられてしまいます汗汗汗そこはロマン主義?!やはり19世紀的な人物ですよねびっくり

 

ルードヴィヒⅠ世退位後、息子のマクシミリアンⅡ世が後を継ぎますが、51歳で死去、息子のルードヴィヒⅡ世が19歳で即位します。エリザベートと、ルードヴィヒⅡ世は共にマクシミリアンⅠ世の血をひく形になるんですね。この時代は、血の繋がりがある遠縁の者のことをみんな「従兄弟・従姉妹」という言葉でくくってしまうのですが、マクシミリアンⅠ世は、エリザベートにとっては祖父、ルードヴィヒにとっては曾祖父です。

 

建物と人物と・・・一致し始めると又楽しい。頭が混乱した方はぜひぜひ中野先生のご著書を読んでみて下さい。分かりやすいですよ♪

 

 

 

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