私の、小学校一年の時の担任の先生。
滝沢先生という、女性の年配、ベテランの先生。
髪形は、銀座のクラブのママにも引けを取らなくらい(当時は、そんな
銀座のママのことを知らない子供だったけれど)きちん夜会巻きのように
結った感じで、上級生はブルドッグというあだ名で呼んでいたほど恐い面
持ちで、~頬のあたりがブルドッグの顔の垂れ下がった部分と似ていなく
もない?~いつも背筋を伸ばして廊下を歩いていた先生。
この先生は、朝の朝礼の時にいつも歌の指導をし、ピアノ伴奏をしていた
方だった。私の卒業した小学校には、毎月(4月から3月)の歌(絵と歌
詞が描かれた大きなパネル)が体育館の両脇に掲げられており、月初めの
朝礼の時間には、先生がその唱歌の指導をしてくださっていた。
これら、♫春の小川(春の小川はサラサラいくよ~)から、♫われは海の子
(われは海の子白波の~)♫スキー(山は白金、朝日を~)、6年間歌う
わけだけれど、月に一、二度なので、飽きることはなかった。
おかげで、季節ごとに今でも頭の中には唱歌が流れる(苦笑)。
実際、これはある意味、有難いことだ。日本の原風景や日本人の生活が歌に
現れていて、その日本語の美しさや様子が季節ごとによみがえるのだから。
この先生は、朝礼での唱歌の指導の他、もちろん卒業式の歌の指導も担当して
おられたわけで、小学一年の頃から、♫校歌(明治のころに作られた歌)は
もちろん、♫蛍の光も、♫君が代も、この滝沢先生の指導を受けた。
この先生の指導のおかげで「君が代」は、今でも自信を持って歌える。
歌詞の意味、大事なポイント、息継ぎの仕方。
あの先生の指導があってこそ「君が代」の歌を恥ずかしくなく、歌えるのだと
感謝している。
世界のどこに居ても、日本の四季折々にも、君が代や唱歌を聴くたびに
この先生を思い出す。
次の年、先生は転勤で別の学校に行ってしまわれたけれど、あの小学校で
先生から音楽の指導を受けられたのは、本当に幸いだったと思う。
記憶に残っている先生は、他にも数名おられるが、思い起こせば、
小学一年の担任の、ブルドッグと言われようともいつも堂々としていらした、
音楽の指導に熱意を持って、また、小1の幼子と言えども、手を抜かず
君が代を教えてくださった担任の滝沢先生のことは、お顔もそのステージに
立ち指導をしておられた姿も、廊下を歩く姿も、感謝と共に、ずっと記憶に
残っている。
ありがとうございました。
~ 了 ~
読んでくださってありがとうございます。
私が小学校に入学したのは、昭和40年代前半です。
今の小学校の様子とはかなり違うでしょうね。
厳しいけれど、こまかく世話をしてくださり、また、周囲への目配りも
欠かさない、当時の教師はそんな感じで、入学したての頃は子供ながらに
自分のクラス担任について「もっと優しそうな(雰囲気)先生ならいいの
になあ~」などと思いましたが、慣れるにしたがって先生の良さがわかり、
夜会巻きの、頼もしい”肝っ玉母さん”にも想えたものです。
小6の時の担任、高校の時の部活の顧問の先生も、記憶に残っている大事な
先生ですが、それは、また・・・。
様々な課題があると言われる現代の日本の学校ですが、子供たちが、厳しく
ても気遣いの出来る先生に出会えるよう、そして子供たちも先生を周囲や大人
からの先入観を持たず、「先生」の文字のように「先を生きる人間としての
先輩」として、先生の話を聞く耳を持ち、互いに向き合うよう願ってやみま
せん。