過去録)

2009年9月29日

『Rainy day, makes me feel sleepy, especially when I am cold.』

(雨の日、雨だと眠くなる・・・特に、寒いなって思う時は。) 

 

 

2010年9月29日

『today's dinner, "mackerel"』(今日の夕ご飯は、サバにしよう)

 

2011年9月29日

『春なのに、なぜか、虚しい。

 いや、春だから、虚しいのか? 

 虚しさは、秋の落ち葉に似合うものかと思っていたけれど、

 萌黄色の春にも、失われたモノを重ねてしまう、生きている者の性ゆえ、

 儚さが、虚しさに色を変えて忍び寄るのだろうか・・・。 』

 

*サバ… おそらくは、少しスモークした感じの切り身が売られていた、その

 サバにしよう=簡単な夕ご飯という意味。

*2011年は、ニュージーランドにいたので、9月は春。

 

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2023年9月29日

 還暦まであと三か月。

 母がその年の頃からは、すでに25年前。

 その頃、私は何をしていたか? 

 今の私、今の親の年のことなど何も考えていなかったと思う。

 あれから、父が亡くなり、母も今、結婚してから住み慣れた家を

 離れようとしている。

 

 中秋の名月、白く真ん丸の満月は、深夜前に雨の雲に隠れてしまった。

 高く昇る月は、明日の朝を待たずに、西の空に沈むだろう。

 雲で見えなくても、それはまた戻ってくる。

 

お母さん、会いに行けなくてごめん。今(退院に合わせて)帰国できなくて

ごめんね、といいながら、経済的な理由や立場のことなど母も分かって

くれたと思ったけれど、冗談半分でも「やっぱり来たよと、帰って

来てくれるかと思っていた」なんて言われると辛い。

 

【人が 不可能だと思う ほとんどが

 本当は やりたくないだけ】 

・・・ココロにしみる五行歌(2012年9月18日、過去録から)

 

この言葉が、突き刺さる。

 

本当にやりたいのなら、実現しようと必死になるもの。

先延ばしにしたり、”あきらめた”というものは、本当には(それほど)

やりたいというものではなかったということだ・・・と、昔、職場の

先輩が言っていた。かれこれ、40年近くも前のことだ・・・。

それを聴いて、ああ、なるほど・・・と、新たにモノの見方の一端を

見た気がした。

そういって、先輩はシベリア鉄道の旅に出るため退職していった。

私も、シベリア鉄道に乗ってみたいとか、欧州周遊をしてみたいと

トマスクック(鉄道時刻表)を買って読んだりしてみたが、

先輩ほどの熱意や本気がなかったのだろう、実現しないままだった。

 

あれ以来、本当にやりたいなら実現させる=しなかったということは、

それほど本気ではなかったということ、という先輩の言葉は、ずっと

頭の片隅に・・・いつも・・・ある。

そして今、また、五行歌を読んで、母の気持ちや母に会いに行かなかった

自分の(立場と書いても言い訳にすぎない)ことを持て余し、ため息に

換えて、自分はずるい人間なのか、親不孝なのかと目を閉じる。

 

本当に望むことなら・・・。

そうはいっても、容易ではない・・・。

諦めの連続・・・年を取るにしたがって、そう思うことが増えてきた。

 

年のせいかもしれない。

体の不調だけでなく、生きている時間が限られているのだと目の前に

そのリミットが見えてくるような、そんな気がして、あきらめることに

慣れてきているような気がする。

 

それでもいい。

できることから、できることだけ、やりたいことを少しずつ、一つずつ。

 

来週、晴れたら、彫刻庭園へ行く。

秋晴れの、カール・ミレスの彫刻が仰ぐ空。

来年の秋は、どこにいるだろう。

別の国で違う何かをみているかもしれない。

だから、今年、も一回、秋の色を見に行こう。

 

~ 了 ~ 

 

 

読んでくださってありがとうございます。

良い週末をお過ごしください~。