千葉県在住本間賢&本間剛のご先祖様探訪 | 本間剛のブログ

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 日本教育史資料私塾寺子屋表(文部省編)明治23年等によると、後藤運四郎は本間の祖母(松山町花崎、後に千石)の江戸時代寛政生まれのご先祖です。

 表は次のような内容となっています。

 「学科は読書、所在地は下伊場野村、開業は安政年間、廃業は明治元年、教師は男一名、生徒は五十名、調査年代は文久元年、身分は士、教師名は後藤運四郎」となっています。

 松山町史には次のように記載されています。

 「寛政八年下伊場野村に生まれ、花崎に居住、家塾を開いて門弟の教育に当り、漢学者として知られている。その教授法は独特の民主的教法として賞賛された。現在、その子孫に当る後藤太次馬宅の門前にある「後藤㤗成先生筆塚」は明治十一年門人一同敬仰の余りその名を永世伝うべく建てたものである。」

(写真1参照)

 家伝では本間の祖母は家老の家柄でお城のお姫様といわれていましたので、不動堂要害のお姫様であったのでしょうか?

 松山の領主茂庭の家中である後藤と小牛田(不動堂)のお城の後藤とは領主同志婚姻関係がありましたので、領主がちがっても何か関係がありそうです。もし関係があるとすると、不動堂要害(鶴頭城)の領主ですから、鎌倉時代には鎌倉評定衆・六波羅評定衆であり、明治時代には後藤充康が第七十七国立銀行の設立出資人の一人であり、また、後藤信康の義弟は後藤寿庵、その直系の子孫は東京市長を務めた後藤新平ということになります。(写真2、3、4参照)また、後藤信康を遡ると藤原魚名、藤原北家、藤原不比等、藤原鎌足と辿ることができます。

 また、本間の祖祖母は早坂とくよといい徳陽シティ銀行創業家早坂順一郎の養父と姉弟の関係です。そして、早坂順一郎の長男は早坂啓といい徳陽シティ銀行の会長・宮城県公安委員長等を経験されています。

   本間賢&本間剛の祖父は本間正見(宮城県志田郡松山町長尾、後に千石)といいます。文久生まれの本間久四郎(志田郡松山町千石)の家督を相続し、また、酒屋をしたり、濁酒を飲んで、詩吟を歌う人であり、剣道の達人であり、古武道の達人でありました。そして、本間の家紋はまるに橘紋です。また、後藤家からは結婚式の際、備前長船の銘刀を頂きました。また、祖父の本間は高額納税者であり制限選挙の参政権を2票持っていて、昭和に入ってから車も持っていました。また、田地畑地を取り戻すために弁護士の書生となり、後に札幌に引っ越しています。また、本間久四郎は酒田本間家の初代・三代と同姓同名なので何か関係がある。家伝では伯叔祖父の調べた結果連がりがあると聞いている。(写真5、6参照)(これらの写真は平成24年夏に宮城県、山形県に二人で旅行した時に撮影したものです。千葉からですと、車でそれぞれ450㎞、570㎞程あり、SA、PAで休息をとりつつ無事に目的地に到達することができました。車中泊でしたので、滞在時間は限られており、見て回るのにあまりゆっくりできませんでした。なお、上記の宮城県志田郡松山町は現在の宮城県大崎市であるが、山形県飽海郡松山町(現在酒田市)とは姉妹・提携都市である。

写真1  後藤㤗成先生筆塚
後藤㤗成先生筆塚
 
写真2 史跡西館(鶴館)跡
史跡西館(鶴館)跡
 
写真3 史跡鶴頭城趾
鶴頭城趾

写真4 西館趾
鶴頭城趾
 
写真5 酒田本間家旧本邸①
酒田本間家住宅
 
写真6 酒田本間家旧本邸②
本間家住宅