人生の短さについて考えても答えは出せません。しかし、考えることをやめてはいけません。
私は、夜ひとりで、部屋を真っ暗にして、キャンドルを灯すのが好きです。
暗闇の中でキャンドルが、今にも消えそうなほど小さい灯火を揺らしているのを見つめます。
そうすると、人生の刹那のいかに儚い様子が、その灯火に重なって、永遠のテーマについて、つい考えてしまいます。
私にとっての永遠のテーマとは、どうして今私はここにいるのか。なんで生きているのか。壮大な謎です。
どうして、人生について考えても答えは出せないのか。
人生の短さについて考えていたら、あっという間にその短い人生は終わってしまうから。いえ、ちがいます。
永遠のテーマについてどれだけ考えてみても、答えを出し尽くせない。それだけあまりにも濃い意義が、短い人生に詰まっているから。
それは確かに真実だとも言えます。なぜなら、寿命を全うした人も、不慮に人生を断たれた人も、どんな人だって、無意味な人生なんていうものはないですから。
しかし、ここで言いたいのは、人生について今の私たちの次元で考えてみても、真実を見つけられないということです。
哲学者がいくら壮大な理論を打ち立てて、考えを述べたとしても、それはただの思想でしかありません。
仮に、ある哲学者の思考が的を得ていたとしても、意見の対立は必ず起こります。
どんなに偉い人が言った内容に対しても、異なる見解を述べるまた別の偉い人がいるものです。
政治でも、科学でも、学校のクラス会でさえもある人の意見に全員が心から賛同を示すことはまずないのです。
ドイツの偉大な批評家であったヴァルター・ベンヤミンの著書にこんな箇所があります。
「わたしたちは別れにあたってはじめてものに名をあたえる」
正確には、アンドレ・ジッドの言葉ですが、何が言いたいかというと、物事はそれを過去にした時に初めて知ることができる、ということ。
つまり、人生の最中にいるうちは、人生についてわかり得ないが、それを終えた時に初めて、人生とは何かを知ることができる。
そういう風に言うことができます。
井の中の蛙が、小さな井戸について考えようとしても、理解できるはずがありません。
同様に私たちが今まさに生きている人生について考えてみたって、答えは見えません。
しかし、たとえ井の中の蛙が大海を知る由がなくても、大海について考えなくなってしまえば、その瞳から輝きは失われてしまいます。
ことわざの本来指し示す意味とニュアンスは異なりますが、
大きな海を夢見て、夢中になって生きることで、そこには美徳が生まれます。
人生について考えても答えが出せないけど、生涯をかけて考え続けること。
それこそが、私にとって生き生きと熱意を持って日々を過ごせる糧になるのではないか。
答えの出ない謎について考え続けることが、人生の美徳なのではないか。
そしてその中で、得られる学びこそが、私たちを成長させるのではないか。
キャンドルのロウが底をつき、だんだんと灯が小さくなってやがてゆっくり消えていく。そうすると、もう真っ暗な部屋を照らすものはなくなり、周囲に何があるか、目で見えなくなる。
人生の最期を過ぎた時、目はもう開かなくなります。
亡くなってから少しの間は耳だけは聞こえているそうですが、聴覚も次第になくなります。
感覚が消え去り、骨肉は腐敗し、魂だけの状態になったとき、そうなった時、いったい自分には何が見えてくるのでしょうか。
今日は私の23回目の誕生日でした。24歳を迎える自分への手紙を書き終え、そこで触れた内容に近いことをここでも言及。