内側と外側の話 書き溜め1 | ひろかわ整体院のブログ

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大阪市西区阿波座の東洋医学の逆襲!ココロとカラダにダブルアプローチします。

おはようございます。
今日から本年度の営業をスタート致します。
天気の関係もあって正月休みは結局何処にも行かず拷問のように暇でした。

お休み中に考えていたのですが、
自分は絶対に定年退職などはしないでおこうと
心に決めました。

本日から宜しくお願い致します。

正月休み中に書いたブログがあるんで、
UPしないのも勿体無いので載せたいと思います。

私は2021年から毎年気分を一新する為にリーバイスの501を買います。

2021年は1966年モデル
2022年は1954年モデル
2023年は1947年モデル
2024年は1944年モデル
を買って履いています。

時間というものが存在している為に、
毎年501を1本ずつ購入しているように見えますが、

もし時間というものが無かったと仮定すると、私の手元には501が4本あることになります。

3次元は501を買っている自分
4次元は時間
5次元は全て

を表します。

内側の自分→ソフトの自分
外側のもう1人の自分→ハードの自分

パソコンで例えるなら、そうなります。


この考え方を他の切り口で語っている人物がいます。インドのラマナマハルシです。

ラマナマハルシは、「私は在る」と言っています。ただ在るというだけだと言います。あとキリストも。ソフトに過ぎないということを理解していたんでしょうね。

時間というのは非常に厄介な産物で、
我々人間には現実化を促す役割を果たしているに過ぎません。リアリティというやつです。

本当は全て持っているんですが、
時間をかけて1つ1つ獲得していっているような錯覚を起こさすんです。
時間が。



一人一人に時間は平等に与えられているという人がいますが、私は違うと思っています。

体感する時間が1人1人違うからです。

パソコンに例えるとわかりやすいのですが、
タブを沢山開けていたり、

重いデータをインストールする際に、
ネット環境によっては、
表示されるインストールに必要な時間が30分と表示されていても実際には1時間かかったりすることがありますよね?


あれと同じです。

私は今はソフトの自分がこのブログをハードの自分の指示によって書いています。

ソフトの自分からハードの自分を見ることは出来ません。

人はそれを神とかハイアーセルフとか様々な名称を付けたがりますが、単なる自分自身です。

ソフトの自分もハードの自分も自分に変わりないのですが、アドミニストレータ(権限)を持っているのは、ハードの自分です。

人間には自由意志は無いということです。
3次元の自分には。

自由意志は無いのですが、
分岐の数が無数に存在していて、
寝て(ログアウト)起きて(ログイン)を、
繰り返しながら、毎日違う自分になっているんです。厳密に言うと1秒1秒違います。

なんとなく、直感、無意識に、
これらは全てハードの自分からの声です。

思考する、悩む、落ち込む、怒る、喜ぶ、
これ全部ソフトの自分がエラーを起こしている状態です。

感情はリアリティを構成する為に作られているに過ぎません。これだけが現実ですよってです。これ「しか」存在してないですよって(ソフトだけ)


年末に暇過ぎて紅白歌合戦を視ていたんです。

批判を恐れずに書くと出演者の歌っていた歌、
全曲寸分の狂いもなくゴミのような音楽でした。

上手い歌とはどのようなことをいうのか。

当たり前ですが、音程が狂わない、メロディ通りに歌う、歌詞がきちんと聞き取れるように歌う。

そして情感を前面に出さない。
これに尽きます。

声に本当に力があれば、わざわざ情感に訴える必要はないんです。

亡くなった劇団四季の浅利慶太は同様のことを劇団の歌手に指示していたと聞いたことがあります。

厳格な指導と緻密な演出に加えて、
情感を前面に出さない劇団四季の舞台は、
日本で最も優れたエンターテイメントだと私は思っています。

そこには感情などといった陳腐な存在は
入る隙さえ与えられていません。