命をいただくとかいうけど。 | キャンプ協会なにしてる

キャンプ協会なにしてる

東京都キャンプ協会の理事の一人が勝手に書いているブログです。キャンプのためになる可能性があります。

命をいただくプログラム

とかいいますが、どうだろうねあれ。

 

命は日々いただいているじゃないの。

キャンプで「特別にいただく」という特別感出すのがどうも好めない。

日常では感じない罪悪感を増長させているように見えなくもないし。

 

 

拝んだり

名前を付けたり(これ絶対だめ。)

今シメる動物を前に、その生い立ちを語ったり

そんな煽情を設定したりしてね。

 

ケンタキフラチキ食べる前に拝んでるんでしょうね、そういう指導者は。

回転寿司でマグロほおばる前に生い立ち考えてるんでしょうね。きっと。

 

命をいただく

と言葉にすること自体を注意深く考えると良かろうですね。

 

俺は、命を奪ってる。

で、いただくのは肉である。

また広い意味では、食卓やレストランで料理として運ばれる前にかかった労やそこまで育つために必要だった資源に対しての感謝でもあるが、肉を目の前にそんなことまで考えておられん。

「お、うまそ、いっただきまーす!」

って、カッコ内の文字を読むより早く、口に運んでる。

 

命をいただいていると言えなくもない。

それはまあそうも言える。

 

なぜ

命を奪う

ということから

遠ざかろうとするのだろうね。

 

 

 

だれにどんな言われようと

ニワトリ締める時には

「今日は○羽やっちゃって」

と若手にオーダーしている。

そんなもんです。

 

たったの一羽をみんなで囲んで、おセンチな気分になって、中には泣いたり(泣かせたり)して、おずおずと刃を入れ、血を流す。

ま、みんなでやれば羽をむしるのも楽なんですから、たいしてきつい思いはしないですね。

 

 

2人で10羽をいっぺんに、羽をむしる機械もなくやってごらんないさい。

ただただ、めんどくさいだけです。

めんどくさいことを誰かにやってもらって、私らはケンタフラチキ食ってます。

もちろん命は重要ですが、それよか、動物ヤルのはめんどくさいんです。

さらに、飼っているトリを食べても、ブロイラーみたいな食う前提で短期にむっくむく太らせた鶏の肉より硬い。やわらかい肉になれた人は、うまいとは思いにくい。

俺はうまいと感じます。締まって強い肉を食ってる感じします。

 

 

私が鶏シメてもイノシシはやらないのは、めんどくさいからです。

大きい動物は・・・とか

哺乳類は・・・とか

言い訳いますけども、ま、ほんとのところは めんどくせえからやりたくないんですね。

 

 

子どもたちとやるのは注意が必要です。

受け止められるかどうかは、シメて内蔵引きずり出すグロい行為に耐えられるか、にかかっていると思います。

命を奪えるか、も気になりますし、子どもたちとやってその子がショックでもう鶏肉を食わないというなら、それはまあその子の選択なのでそれでもいいです。

何も考えずにへっちゃらで食べたり

キャンプでは 命 とか言うくせに、会合後の飲み会でだらしねえ顔で何も考えもしないで手羽先しゃぶってるような人もいるでしょう。

しかもまだ食べられる軟骨や、細かい骨の間の肉を無視して、食べやす所だけ食べてるんでしょうね。

そのセンスのほうがおっかねえ。

俺はもともと悪なんで罪悪感はまったくないが

善人ぶってるくせに手羽先テキトーに食べる奴は罪悪感でつらくなるのが本来だが、鈍感力発揮して善人で居続けられる厚顔さには参るわ。

 

 

いただくのは肉。

命は奪ってる。

命を奪うプログラム

がより正しいんじゃね。

 

俺はといえば

肉づくり

と言ってます。

 

淡々とやるんです。

淡々とやる。

めんどくさいけどやらなきゃしょうがないんでやる。

 

命をいただく!うふん!メソ!とか、まあやってもいいけど。

でもどうせすぐに

命を奪った重さより

内蔵引きずり出して処理する面倒

夏は蜂が寄ってくる処理中の肉

なかなか抜けきれない細かい羽

苦労してサバいたのに、カッチカチの肉

の、不快さやめんどくささやがっかり感のほうに目が行きますから。

さっきまで命が命がとか感じてますみたいなメソメソしていたくせに

サバく段階で平気でこう思うはず

「ううぉーキモー!」  ってね。

命をいただくうえにキモいプログラム になっちゃうでしょ。

そうなるんだよ。

それ、変。

命に感謝させて重ーくさせ過ぎてるくせに

内臓をキモいと思わせる。

 

命を奪ってキモくても我慢して肉を作るプログラム

っていえば、大丈夫。

俺はそんな言えないんで

肉づくり

です。

 

 

このめんどくさいことを感じてようやく

感謝やありがたさが身に染みるのではなかろうか。

 

俺なんてまあ鶏くらいしかやりたかないけど

イノシシやってるへん○えはまー、すごいわ。

鹿とかウサギとかもやっている人たち、すごいわ。

もうキモいめんどくさいのレベルでなく

この肉を食べつくす

という、感謝の表しとして最上級の技術目指してやってる。

そういう人たちは必ず

淡々とやってる。

 

イノシシさんは、お母さんのおなかから出て、ウリンボうというかわいい姿からだんだん大人になって、今、私たちの前で命の灯が消えるところです。

とかなんとか絶対言わない。

いかに手早く

いかにきれいに

いかに楽に

処理するか。

どうやると骨までうまく使えるか。

そう考えて淡々と黙々と刃物を振るう。

命を奪った側がやるべきことは、しっかり上手くさばいてできるだけ活用すること。

これが、わが国の殺生。

 

 

 

命をいただく・・・とか、ほんわかした印象でどことなく涙ちょうだいに仕立てるのは、どことなく欧米感ある。

捕鯨・・・ね。

 

自分たちでどんどん外洋に出て、バンバン銛の銃でクジラとって、油以外は捨ててたろ。

そのころ、日本の捕鯨は、神に感謝し、クジラに敬意を払い、骨やヒゲまで使い切っっていた。クジラの刺子(銛をもってクジラにとびかかる役)は命がけで海に飛び込んで銛を叩き込んだ。

それがどうだ。

今や、油以外捨ててた人たちが、捕鯨反対だと。

その理由の一つに「かわいそうだから」がある。

 

命をいただくとかもったりまったりしてるくせに、絶対思うはずのキモーいをなんか言い訳して隠すのと、どこか似ている。

命を奪って使い尽くすことをもって、謝意と祈りに代えたいものだ。

 

淡々とやろう!

命を奪って面倒でもさばいて食べるグルメ!

 

 

でも

烏骨鶏のひよこはめちゃんこに

かわいいよね!

うまそうって思えない俺は全く未熟。