帰ってきた存在との対話6 超能力や霊能力というもの | 連続アメブロ演義 まとひ

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剣龍之介のいま、つたえたい話

「では、一つ質問させて下さい」

私は言った。

「一つと言わず、いくつでも結構ですよ」

お宮様は笑いながら答えた。

「ええ、では。超能力や霊能力というものは、存在しますか?」

「はい。呼び方はどうあれ、一般の、普通の人々(これもあいまいな表現ではありますが)と異なる能力を持っている人はおります。『超能力』、『霊能力』というものは人間がつけた名称ですけれど」

「なぜ、あるのでしょうか?」

「なぜ存在するかといえば、人間はまだ進化の途中にあるからです。人間の身体には今以上の能力が常に眠っています。昔から『火事場の力』などお聞きになるでしょう?オリンピックやスポーツ、文芸、芸術、学問、あるいは一般の仕事でも、突出して才能を発揮している人がおりますね?

なぜ能力を発揮している人がその人なのかといえば、2つ言えます。1つはその人が今回の人生で果たすべきことに関わっている。2つめはその人が努力して、隠れたものを発掘したということです」

「ただ、才能と人格は一致しないんですよね?」

「そうです。そういう場合もこの世では多いのです。こういったことについては、みなさんも経験がおありでしょう?ある才能に恵まれた人がいて、成功を収めておりますが、たいへん意地が悪いなど、悲しいことですが……」

「なぜ、一致しないのですか?」

「この世が修行の場、であるからと申せましょう」

「それは意地悪される側にとって、ですか?」

「している側にとっても、です」

「成功して地位もお金も名声も得ている人がですか?」

「そうです。それこそが、修行なのです。成功して地位もお金も名声も得ていることで、その人は非常に重い修行を課せられます。この世でも課せられますし、肉体を返してからも課せられます。その力をどう使ったか。大きな富と権力を持てば持つほど、後には大きな修行が待っています。みなさんが予想するより、はるかに巨大な試練です。

この世では、お金持ちになりたい、地位が欲しいとみなさん、憧れの目でそういう方々を見ますね?わたしがこの世にもう一度生まれるなら、それだけは望みませんね。お金は家族が健康に暮らせるぐらい、地位は自分の仕事が尊重されるくらいあればじゅうぶん幸せです。それで、この上ないことと思います」

「じゃあ、私もお金持ちは嫌だなあ」

「いえいえ、それを夢見て、向上するのは悪いことではありませんよ。目標と強い向上心を持つことは良いことです。その使い方が大事だと申し上げているのです。親切と愛情をより多くの人に届けることです。私がお願いするのはそれだけです。

この世は発展途上です。ですから、親切や愛情を振りまいても、顔に泥が飛んでくるようなこともあります。その方が多いかもしれません。バカバカしくなってしまうかもしれません。その気持ちは分かります。わたしもそうやって、配ることをやめてしまった一人です。

ただ、肉体を脱ぎさって、こちらへ参り、非常に後悔しました。なぜ、わたしは良いことをやめたのだろうかと、長い長い歳月、苦しみました。誰かに苦しめられたのではありません。自分自身の後悔の念で苦しんだのです。人を助けたり、社会を少しでも良くするチャンスはいっぱいあったのです。ですが、わたしはそれをみすみす逃しました。わざとチャンスを捨てていました。面倒だったからです。周囲の目が気になっていて、浮き上がりたくなかったからです。良いことをしたのに、文句を言われ、傷つきたくなかったからです。

けれど、今、確信を持って申し上げるのは、みなさんがこの世で行った良いことは、絶対に無駄にならないということです。絶対に。こちらへ来てから、ぜんぜん知らない方にお礼を言われることが何回かあったのです。それは、わたしが地上にあった時に、何か知らず知らず、その方々をお助けしていたようなのです。こちらでは良いことも悪いことも、全くごまかせないのです。

ですから、周囲の評価など気にせずに、良いことをなさることです。わたしが今申し上げたのは、あの世で助かるからやりましょうではなく、良いことは無駄にならない、という趣旨です」

「『良いこと』、その基準が難しいのですが……。何をしたら良いのでしょうか?何が良いことなのでしょうか?」

「誰にとっても善であること。つまり、誰も傷つけないことです。あなたを含めて、誰も犠牲にしないことです。Aさんから見て『良いこと』でも、Bさんから見て『悪いこと』なら、これは善でないのです」

「電車で席を立って、まだ年寄りじゃないと怒られました。これは善ではなかったのでしょうか?」

「でも、すみませんと言って、あなたは引き下がりましたよね」

「はい」

「あなたは良いことを2回したのです。あの方は、後々、あなたに怒鳴ったことを反省する日が来るでしょう。実は先ほど言った、ぜんぜん知らない方からのお礼というのは、そうした類のものだったのです。生きているときはわからなかったのですが、こちらへ来て、その方々も反省したらしいのです。それで、改めてお礼に来られたらしいのです。ですから、無駄にはなりません」