連続アメブロ演義「まとひ」 魏祭翼にあてて その三 | 連続アメブロ演義 まとひ

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剣龍之介のいま、つたえたい話

「よく言われるのですが、家庭と学校は切り離された存在ではないのです。対立する存在でもありません。それぞれの負担できない部分をお互いが補完し合う存在です。目的を一つにした協力体制の構築が必要でしょう。ですが、現在はそれがうまく言っているとは決して言えない状況です。むしろ、あきらめに似た空気、埋められない溝は広がるばかりに見受けられます。

教育委員会や地元学校、地域町内会などと連携していくべきという話は、おそらく周知のことでしょう。共同認識を作り上げていく作業が、どうなるかです。同床異夢ということでは、効果は出ません」


ここで、魏祭翼は、


「先生は、大人と子供をあまり対比されませんが、それはなぜですか」


と尋ねた。先生はこう答えた。


「本来、大人と子供の区別はないからです。誰かが勝手に付けた社会的レッテルにすぎないからです。ある日突然、『大人』という別人になったのではありません。本質的には、物心ついた頃から同じです。年齢や経験を経て、向上あるいは停滞しているに過ぎないと、私は思うのです。

あなたも見た事があるはずです。『大人』とよばれる年齢の人が他人の迷惑を顧みず、好き勝手な事をやって恥を知らないでいる。あるいは『子供』と呼ばれる年齢の人が礼節を守り、逆に『大人』といわれる人々のお守りをしているような場面を。特に非常時や物資不足の時、それは顕著に表れます。

人格と才能のように、人格と年齢もまた、必ずしも一致しないのです。ただし、年齢の場合、たとえば赤子と十歳の人では、運動や現実的機能で差異が出るのは致し方ないことです。

大人と子供の定義が難しいのは、肉体的な差異と精神的差異がなかなか、明確なものではないからです」


「先生は『子供たち』という言い方をされる場合が多いですが、それは年少の人を指している言葉だと思います。それは大人と子供を年齢で定義されているのではありませんか」


「そうです。そこに、この問題の表現の難しさがあるのです。義務教育や保育制度は今のところ年齢である程度決まっております。そして、たとえば、幼稚園で教わる事は、建前上、大学では教えません。ですから、どうしてもあなたと、この問題について話すときには、年少の人をまず念頭に置いた『子供たち』という言い方になってしまいます」


「では、『子供たち』の『たち』に、年長でも精神的、人格的に未熟な人々が含まれているということですね」


先生は、微笑まれた。


「ええ。そう思ってくださって結構です」


「それでは、年少でも精神的、人格的に発達している人々は『子供たち』に含まれないこともある、ということでよろしいですか」


あまりに、魏祭翼が真剣に念を押すので、つい、横で聞いていた私たちは笑ってしまった。


「ええ。結構です。願わくば、あなたなりの答えを見つけることを欲します」


先生はにこやかに答えられた。よほど恥ずかしかったのか、真っ赤な顔をした魏祭翼は、茶碗を掴むと一気に茶を飲み干した。いかにも魏祭翼らしいと、私は思った。