カクヨムや小説家になろうに投稿しているアマチュア小説家が「自分は語彙力がない」とTwitterで嘆いているのをよく見かけます。
それは当たり前というか、なんというか。
異世界転生チートでハーレム、などラノベの類ばかり読んでいても語彙力が上がる筈はありません。
世の中には、純文学という表現形式があって、純文学を読んでいるだけで、勝手に語彙力は上がる。語彙力アップする。
純文学は、文体を重視して、物語を重視しない、という特徴があります。だから、読んでいてつまらない、退屈に感じる。
ただ、中村文則の考え方は違います。
――中村さんは純文学とエンターテインメントの区別を意識していますか。
中村:僕は純文学作家です。純文学はもっと面白いものだということは伝えたい。純文学の幅を広げたいんです。よく「文体か物語か」という二元論がありますが、僕はその意味がよく分からない。「文体も物語も」でいいんじゃないかと思います。物語性の否定というのはよく分かるしそういう作品も読んでいて好きだと思うけれど、みんながみんな物語を否定する必要はないんじゃないかと。純文学はもっと多様であるべきだと思います。それは、僕の原風景として、ドストエフスキーの物語性に富んだ作品があるからかもしれません。純文学だけどストーリーがあってスリルがあってハラハラドキドキしていていいじゃないですか。『掏摸〈スリ〉』や『去年の冬、きみと別れ』はもろにその手法にしていますね。『掏摸〈スリ〉』はドキドキする展開にしたし、『去年の冬、きみと別れ』はミステリですし。たった一文でがらっと変わってしまうというのも、元をただせば安部公房がメタ的なことをやっていて、その影響もあるかもしれない。
中村文則が書く小説は純文学でありながら、物語性もある。
伊坂幸太郎と中村文則原作の映画化作品が多いのも、物語性を重視しているからでしょう。
さいきん読んだ中村文則の小説で、めっぽう面白かったのは『その先の道に消える』です。ミステリー小説として、すごく良く出来ている。
それに、例えば芥川竜之介や夏目漱石や太宰治などの小説は、青空文庫で無料で読めます。
小説を書き写すという勉強法もあります。
様々な純文学小説の全部あるいは一部を書き写す勉強をしたことがあるのですが、それで自分の文章のクセに気づいたこともありました。
芥川竜之介の『トロッコ』という短編小説を全て書き写したとき、自分が「〇〇に」と書くクセがあることに気づきました。
『トロッコ』の中では「〇〇へ」と書かれています。何度も書き間違えるので、これは「〇〇へ」が正しいんだな、と理解しました。
「語彙力がない」と嘆いている人は、純文学を読むと良いと思います。