東京へ向かうバス。先週勃発した謎のギックリ的腰痛(最初仰向けで寝れなかった)を心配したけど、9割9分治ってました。
「自分で自分をコントロール!」「自分の体は1番自分が知っている!」なんて偉そうでそれっぽいことを自分で言ってるけどまぁ無理な話で、腰痛がなぜ起きたのか?はあくまで予想しかできず、併発した謎の腹痛もなぜ?なにが起きてるのか?なんてわかりゃしない。
「寝て治らなかったら病院行こう」って思ったけど、寝てたら治りました。
ちなみに昨年勃発した胃潰瘍(だと思う)も寝てたら治ったけど、あれは結構「ヤバイかも」って思ったなぁ。
そんな不確実で曖昧なことを、“先生”なんて呼ばれちゃう僕たちは「これは○○ですね」なんてわかりきったかのように言っちゃうんだけど、自分の体もわからないのに他人のことがなぜわかる??!!と自分に問いかけると、「この仕事の意義ってなんだ?」とも思ってしまうわけです。
もちろん、確実で的確な診断は大切です。そのために病院には画像診断があり、血液検査があり、さまざまな診断方法があって統計に基づいて限りなく100%に近い診断をして対処法、治療法を考える。
それが人の寿命を延ばしてきたのは紛れも無い事実です。
ただ、曖昧で不確実なものはこの世の中にはごまんとあって、手を当てて治ったり、喋ってるだけで治ったり、占いだのスピリチュアルだのが人気なのもこの“不確実で曖昧”だからこその醍醐味なのかもしれません。
確実にわかる未来、確実にわかる将来だったら果たして人生は楽しいのか?
と思うと、わからないからこそ楽しいし、わからないからこそ悩むし、苦しむし、わからないからこそいろんなところで議論とかディスカッションが行われるし。
なので僕は、この究極の“不確実で曖昧”すぎる自分自身の体がどうなってどのように変化するのかを感覚で知りたいし、それでうまくいけば施術の1つの指標になり、それが違っていてもそれもまた施術や相談事を受ける上での判断材料にもなるわけです。
人生を実験しながら生きている。みたいな。
実験には失敗はつきもの。何度失敗したことか。今も「何度失敗するんだ?!」って投げ出したくなることもあるけど、どうせ“人生は不確実で曖昧”だしそもそも“人間自体が不確実で曖昧な未完成の生き物”であることに意義があると思ってやり過ごすしかない。のかなと思います。
5月病で苦しむ人もいるかも。子育てとか育児とかで悩む人もいるかも。
でも、答えがそこにあったら面白くないんだよきっと。
不確実で曖昧だから悩んでる。
でもその繋ぎ目あたりでたまに見つかる、
楽しさとか喜びとか幸福感があるってことは日々を一生懸命生きてる証拠なんだと思う。
やっぱり、不確実で曖昧なほうが楽しいじゃないか。そう思うのです。