2024年8月に北海道へ行った旅行記です。
<過去記事>
その①青森・弘前1(弘前城)
その④北海道・函館1(函館山)
その⑤北海道・函館2(笹流ダム・四稜郭)
次は五稜郭へ行きます。
五稜郭と言えば幕末の旧政府軍と新政府軍が戦った戊辰戦争の最終盤の戦い(箱館戦争)の場。
五稜郭の写真を初めて見た時は「こんな星の形のお城があるんだ!!」と驚いて印象に残っています。
学生の頃は歴史は暗記ばかりで好きじゃなかったのですが、各地を回っていると歴史も復習したくなりますね。
そして、五稜郭は漫画の「ゴールデンカムイ」でもクライマックスシーンで使われていました。
「ゴールデンカムイ」は日露戦争後の明治後期の北海道(+樺太)が舞台でアイヌが隠した金を探す漫画なんですが、函館戦争で戦死したはずの土方歳三が実は生き延びていて、登場人物として出てきます。
矢印のところから番号順に行きます。
①五稜郭石碑
写真奥の一の橋を渡って右側にある半月堡(はんげつほ)を見ます
五稜郭の石垣の上には「刎ね出し」と呼ばれる出っ張った石があります。
登りにくくして侵入を防いでいます。
②二の橋を渡ります。
ゴールデンカムイでは激しいバトルシーンがありました。
③橋を渡ると箱館奉行所と書かれた門があります。
元々五稜郭は箱館奉行所として使われていました。
④藤の棚
⑤武田斐三郎(たけだあやさぶろう)の碑
五稜郭を設計建築した人。
日本が開国し、蝦夷地の防衛を管轄していた箱館奉行所は元々函館山の麓にあって、函館山からは見下ろせ、港からも近い場所にあったため、何かあった時は防衛機能が乏しく、港からの射程距離から離れたもっと内陸に移築することになりました。
設計を任された武田斐三郎は函館に入港していたフランス軍から情報を得てヨーロッパの城郭をお手本にした土塁を設計してこのような形になったようです。
安政4年(1857年)に着工、慶応2年(1866年)完成。
完成から2年で江戸幕府崩壊。
箱館奉行所の庁舎は五稜郭が完成する前(元治元年1864年)に完成し、慶応4年(1868年)4月に新政府の箱館裁判所→箱館府(改称)へと引き継がれ、同じ年の明治元年(1868年)10月に旧政府軍に占領され、箱館戦争(戊辰戦争の最後の戦い)の本拠地として使用されました。
⑥箱館奉行所
箱館戦争は結局、翌年(1869年)4月より新政府軍が反撃を開始し、5月11日の箱館総攻撃では函館山陥落、四稜郭も陥落、3隻あった軍艦は1隻拿捕され、2隻座礁により放棄されました。
5月12日には新政府軍の甲鉄艦より艦砲射撃がおこなわれ、太鼓櫓に命中して死傷者が出たそうです。
明治2年(1869年)5月18日に榎本武揚(えのもとたけあき)の降伏により新政府軍に明け渡されました。
※日付は旧暦
五稜郭は外国船からの砲撃を避けるために内陸に作ったけれど、技術の進歩により結局戦艦からの射程距離内になってしまったのでした。
箱館戦争の後は明治政府の所有に戻りましたが、その後行政府として使われることはなく、庁舎は建築して7年で取り壊されてしまいました!
今の建物は解体から140年を経た平成22年(2010年)に復元されたものだそうです。
箱館奉行所は見学しませんでした。
武田斐三郎(たけだあやさぶろう):五稜郭設計
杉浦誠(すぎうらまこと):箱館奉行
清水谷公考(しみずだにきんなる):箱館裁判所総督、箱館府知事
箱館奉行所(江戸時代)→(新政府)箱館裁判所(1868年短期間)→箱館府(改称・1868-1869年)→開拓使※札幌へ(1869-1882年)
次は五稜郭タワーへ行きます









