午前中

映画をみにいってたんです。

それとの相乗効果もあるのかな。

 

今日共鳴会に行きまして、共鳴中に感じたこと。

 

息をしてることが愛すること。

心臓が動いていることが愛すること。

血液やリンパ液がめぐっていることが、愛すること。

 

だからほんとーに、何も、何一つ、する必要はない!!

存在してるだけでいい。

 

ゆびいっぽん、動かす必要はない。

生きてるだけでいい。

生きてることそのものが愛の行為。

 

そんな共鳴会でした。

「人生において重要な選択はしばしば、後から振り返って重要だったとわかる。

まるでバックミラーを見るように。」

アジャシャンティ


結婚とか、離婚とか、離職だとか、事故や被災、身近な人との離別、死別など。

そういう大きなできごとは、起こったときに自覚がある。


いっぽう自分ではその時点では意識していなかったけど、後で振り返るとあれは大きな選択だったんだなとわかることがある。


免許は持っているけど、ほとんど運転はしない。

でも人生を運転しているつもりになってバックミラーをのぞくと、今までたくさんの分かれ道があったんだなと思う。

止まってどちらへいこうか考えた道もあったけれど、ほとんどの道は選んだことすら覚えていない。

多くの出来事はただやってきて、その中で悩んだり、あがいたり、誰かに相談したり、ただただひれ伏して願ったり、死んだようになって過ごしたりしているうちに、気が付くと終わっていた。


もしそのとき、選べると知っていたとしても、どっちがいいかは選べなかったと思う。


「多くの人が私のところに、相談にやってくる。」

アジャシャンティは言う。

「そういうとき、私はその人にどうするかアドバイスはできないし、しない。

ただその人が立ち止まって、『どうしたらいいかわからない』不安、快でない状態、落ち着かなさのなかにとどまれるように、それらを抱きしめられるように手助けをする。


なぜなら、そこにとどまることでしか、次の1歩は見えてこないからだ。

多くの人はその不安に耐えられず、目を背け、手近な解決策を求める。

だがそうしてやり過ごしている限り、また同じパターンの出来事がやってくる。

けれど、立ち止まり、『知らない』『わからない』ということを抱きしめるとき、新たな1歩は向こうからやってくる。」



しばらく

食事法とか

食事内容について

模索してました。


が、先日ある人のメルマガを読んで


お水

お味噌

お米

調味料


にはこだわっていこう!と改めて思いました。


あと私なりに考えたのは


体によいといわれるけどおいしいと感じられないものより

そのとき自分の身体がおいしいと感じるものを食べる。


理由はシンプル。

続かないから。


ええ、ほんとにね。どんなにいいものも、体にいいってだけでは続かない。

これを痛感したので。


無理せずいきます!



おおのぎむつこさんの「生きる知恵を学ぶクラス」に出ています。きのうのクラスで、みんなと話していて突然口から出た言葉。

「誰に向かって言い訳してるんだろう??」


ちょっと前に「私の人生全部言い訳だった叫び」と気づいて、「言い訳をやめよっと」と思ったら、ものすごく毎日がシンプルになり、いろんなことが動き始めた。


そんなことをきのう話していて、出てきた言葉だった。


誰に向かって?

たぶん、自分に向かって、なんだけど、それを意識はしていない。

ただ言い訳してる。

私体力ないし。人見知りだし。片づけられないし。こんな性格だし……

言い訳がなぜ必要かというと、無意識に責めてるから。

自分に責められて、そこから逃れたいから、必死で正当化してる。

完全な1人芝居。

でも、その不毛なメカニズムに気づいていないから、やめようと思ってもむずかしい。


責めるのはなかなかやめられない。


でもまず言い訳をやめたら、というか、その不毛さに気づいて言い訳できなくなっちゃったのだけど、やめてみたら、どうも自分を責めるのも止まったみたい。逆転の発想といったらおおげさだけど。


言い訳はやめなくてもいい。

ただ声に出してみよう。


なんだかわらけてくるよ。

ああ、私いつまでお母さんのせいにするんだろ。

いつまで別れたダンナのせいにするんだろ。

いつまでこどもを言い訳にするんだろ。

それを採用してるのは「ジブン」だったんだよね。



最近
当たり前に人が知ってること
知らなくて
恥ずかしい思いをする。
知らないことは、
恥ずかしい。

でも
知らないのに
知っているふりをしていることは
もっと
恥ずかしい。
だから、
ちょっと我慢して、
正直にきいてみる。

ほんのすこし
すきまがあく。