斎藤文彦さんのカール・ゴッチ生誕100年記念講話①

-神様の本当の意味、アントニオ猪木はゴッチに何を求めたか-

2024年9月1日(日)、#舟橋慶一先生の朗読教室 の中で、

#斎藤文彦 さんのカール・ゴッチ生誕100年記念講話

-神様の本当の意味、アントニオ猪木はゴッチに何を求めたか-がありました。

非常に印象的な内容でしたので、内容を2回に分けて紹介します。

カール・ゴッチは1924年生まれ、つい最近も愛弟子のジョー・マレンコが来日したばかりです。住まいはオデッサというフロリダ州タンパの外れにある小さな街でした。

カール・ゴッチ御本人は自分のことを神様とは一度も言っていないそうです。「俺はただの〇〇わの老人だ」(I am just a crippled old man )が口癖で、本人の意向で、ただの一度も自伝は出版されていません。 

カール・ゴッチは「俺の一生なんか誰が読みたいのか」と本当に考えていました。大きな存在は自分自身の価値に無頓着、大人物とそうでない人の別れるところかもしれません。

第3回ワールドリーグ戦(国際プロレス)は水曜日7時からTBSで放映され、カール・ゴッチとビル・ロビンソン戦は、1971年、46歳と30歳の反則をしない外国人選手として紹介されたのです。

1943年生まれのアントニオ猪木と1924年生まれのカール・ゴッチとでは19歳の歳の差があります。カール・ゴッチはベルギーの小さな港町、アントワープの生まれ、ドイツ語、ベルギー語等5ヶ国語を自由に操りました。

ヨーロッパの場合は地続きで国境があるだけ、国籍は政治的な文脈でしかありません。概念的に戸籍謄本があるのは日本と韓国だけであり、米国では出生届が中心になります。ヨーロッパの国籍はどこで税金を払っているかの違いにすぎず、カール・ゴッチはドイツ人であると同時にベルギー人であると言って良いでしょう。

24歳のカール・ゴッチは、1948年ベルギー代表でロンドン・オリンピックに出場、グレコローマン、フリースタイルの両方で7位入賞(87kg級のライトヘビー級の3回戦)を果たしています。

カール・ゴッチにとっての第二次世界大戦は1939年から始まっていて、収容所の中で終戦を迎えています。優生思想というナチス国家主義から生まれた、白人の青少年を集めた収容所でカール・ゴッチは終戦を迎えたのです。

19歳のとき、作業所の機械に挟まれ左親指の小指を失うという大きな事故もありました。 その事故により、680ドルの毎月の小切手を死ぬまで受け取ることにもなりました。

カール・イスタス(本名)という記録があり、1950年頃、ベルギーでプロレスラーになっています。26歳のときアウフ・ロビンソンにイギリスのウィガン、ビリー・ライレージム行きを勧められるます。

1960年モントリオールから米国入りします。1961年日本に初登場、カール・クラウザー前のリングネームで来日しますが、キャロル・クラウザーという全くの別人が来日できなくなった代わりとも言われていて(要確認、実は、そのレスラーの存在が確認できないという話もあります。)、翌年カール・ゴッチに改名します。

昭和36年初来日、キャリア2年目の18歳、カール・ゴッチとアントニオ猪木は出会っているのか分かりません(続く)。