高見山と千代の富士がプロレス転向-梶原一騎は大日本プロレス創設を画策?-(再検討して掲載)

 

①1975年(昭和50年)の高見山大五郎と千代の富士貢のプロレス転向がほぼ決定した話は、②1978年(昭和53年)、梶原一騎が『大日本プロレス』創設を画策、1979年(昭和54年)からスタート予定のホラ話とごっちゃになっています。

 

大日本プロレスは,資金として1億5千万円準備され,法人登記も済ませて代表取締役には豊田泰光、役員には元日本プロレスである吉村道明と当時梶原氏の用心棒的存在だったユセフ・トルコが就任する予定。

 

しかし役員の一人が出資金である1億5千万円を全額使い込んでしまい計画は頓挫、今となっては真意はわからないと梶原一騎の本には記されているそうです。

 

後年,横綱となった千代の富士貢が梶原一騎先生の弟の真樹日佐夫と面会、真樹日佐夫があの時は役員が迷惑をかけて申し訳なかったと話したところ、「あの時,プロレスに行かずに結果としては良かったです。だから御気になさらないで下さい」と千代の富士関は丁寧に答えたという逸話もありますが、梶原一騎、ユセフ・トルコのホラ話に真樹日佐夫が乗っかっただけの可能性が高いと思います。

 

フジテレビの放送も内定、役員が資金流用により計画が頓挫といいますが、話全体が法螺話の可能性が極めて高いのです。

 

と言うのも、昭和50年3月にハワイ・ホノルルに高見山大五郎がプロレスラーになるためのジムをハワイのスポンサーの援助により作ったのは紛れもない事実です。

 

昭和50年3月7日の八田一朗の羽田空港の記者会見をサンケイスポーツが報道、昭和50年5月1日の日刊スポーツは、それに加えて、高見山大五郎がプロレスラー契約した事実まで暴露しているのです。

 

そうすると、大日本プロレス構想が画策されたというほら話と3年間合いません。

 

高見山大五郎の後ろ盾がハワイアン・マフィアであることが発覚、当時の春日野理事長がテレビ朝日の永里高平に相談、春日野理事長とその後援者の強い介入と懐柔により計画は頓挫していますから、それ以降の昭和53年に高見山大五郎がプロレスラー転向を持ちかけられたり、本人が転向を考えたりする話は眉唾、いや、あり得ないのです。

 

昭和50年にプロレス入りに失敗、その後の高見山大五郎は、年寄株取得のために少しでも長く幕内で取ることに専念するようになるのです。

 

千代の富士貢も昭和53年には脱臼癖を克服して幕内入りしていますから、大位山勝三が千代の富士貢にウェイトトレを指導した時期、おそらく、昭和50年から昭和51年、幕下で低迷していた時期ですから時間軸が全く合いません。

 

この時期のズレをどう考えるかですが、⑴高見山大五郎がハワイにプロレス道場を作ったのが昭和50年3月、⑵高見山大五郎のプロレス転向を日刊スポーツがすっぱ抜いたのが昭和50年5月1日、⑶プロレス転向を考えていた千代の富士貢が国際プロレスの大位山勝三にプロレス転向を相談したのが昭和50年、昭和51年という事実を考えると、答えは出ているのでしょう。